俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Walk Don't Run~「ゆっくり急げ」とギリシア語で言う

ここで別のギリシア語を見てみましょう。

 

ΣΠΕΥΔΕ ΒΡΑΔΕΟΣ

 最初の二文字はもうお分かりですね。続くΕΥは、単独ではそれぞれ[エ]、[ユ]という音ですが、二つ並ぶと、[エウ]になります。次の ΔはDに当たります。全部で[スペウデ]、急げという意味です。続いて後ろの語を見てください。はじめのBはローマ字と同じですが、その次のΡがくせ者です。ローマ字のPに似ていますが、そうではなく、Rに当たります。Rと同様に巻き舌で発音します。残りはもう読めますね。全部で[ブラデオース]、意味は「ゆっくり」です。文の意味は「ゆっくり急げ」、ラテン語で有名になった言葉ですが、このギリシア語の言葉がもとにあります。

 

古典ギリシア語のしくみ (言葉のしくみ)

古典ギリシア語のしくみ (言葉のしくみ)

 

  これは買ってすぐ読んだのか。三年前の夏だったから。

 ギリシア語はやはりきちんとかじっておきたかった。ロシア文学者だとばかり思っていた人がギリシャ語について語っていて驚く、といったことは、何度かあった。決して言語学者じゃない。ふつうの、露文学の専門家と思われているような人。だから、基礎ぐらいはわかりたい、という気持ちが生じて、今も消えない。

 ただ、今となっては18,9歳から語学徒をやっていればそんな機会もあったろうか、と夢想するのが精いっぱいだ。ずっと後になって、後輩が、ギリシア語の練習問題に熱中したころのことを語っていたのすらもう昔だ。名詞の単数、複数を明確にするため、「馬どもは」といった表記をしてあったとか、そんな話。うらやましかったなあ。

 あと、いつだか、三つ目の大学の研究室が改組になって、たてまえだけは西洋文学・西洋語学といった各国語を越えた枠組みができたとき、訪ねていって宴会にまぎれこんでたら、西洋古典の学部生がいて、「大学院、どうするの?」と尋ねたら、まだ確たる考えはないみたいな返事だった。

 そういや、ギリシア語で博士号を取ったTさんという男子がいたのも思い出した。

 二つ目の大学の英文学の師匠がギリシア語を教えていた話は何度か書いているだろう。あんなには出来なくていいのだ。文字と、入門書に出てくる基本的事項に、いっぺん触れておきたい。

 英語とロシア語でいっぱいいっぱいだけれど、それに飽きたら、またこんなの読もう。ノートを取りながらでも、線を引きながらでもいい。急がば回れ、いや、ゆっくり急げ。どちらでもいいが。


Walk, Don't Run Guitar Lesson

岬でまつわ~「ゆっくり急げ」という古い格言

まず、次の文をご覧ください。どのように読んだらよいでしょう。

 

Festina lente!

 

最初のfestinaは「急ぎなさい」、次のlenteは「ゆっくりと」という意味の語です。あわせて「ゆっくり急げ」ということです。ラテン語の格言で最も有名なもののひとつです。ただし、本書では決して急がず、あくまでもゆっくりと進めていきましょう。

 

ラテン語のしくみ (言葉のしくみ)

ラテン語のしくみ (言葉のしくみ)

 

  このシリーズの、古典ギリシア語のほうが先に出たんだっけか。たしかそっちのほうでも「ゆっくり急げ」という例文が最初に出てきて、今も忘れない。

 とにかく、大学にいくつも通わせてもらったのに、結果的に古典ギリシア語ラテン語も授業をとらなかった、というのが、何とも悔いが残る。これらをしっかりかじっておきたかった。

 英語の先生がラテン語を読めるという例はいくらでもあるし、ロシア語学も、中世や、古スラブ語をやる場合、ギリシア語の知識が必要になることがある。ただし、そこで言うギリシア語はたぶん新約聖書ギリシア語で、古典ギリシア語とはまたかなり違うらしいのだ。

 で、それ以前の問題として、選択必修のような位置づけだったドイツ語を、必ずしも取らなくていい、と解釈して途中でやめてしまった自分の、なんというか執念のなさが、ほんと痛恨だったりもする。

 ただ、その後ロシア語を選ぶことになり、そっちはまあまあだったのは、最初の失敗で懲りているせいもあるだろう。

 どなたかが言っておられたように、意志が強いとか意志が弱い、というのは結果を言い表しているに過ぎない。意志が弱いから語学がものにならない、だったら意志を強くすればいい、というのはまったく現実に即さない抽象論だ。いくらやっても身が入らず、語学がものにならない状態を指して「意志が弱い」と言うのであり、そこをぐっとこらえて単調で苦しい例文やら変化表の暗記をこつこつとやれるようにもっていく、その結果として「意志が強くなる」のであって、「意志が強い⇔意志が弱い」という単純なスイッチみたいなものが人体のどこかについているわけじゃない。

 ラテン語は、たしか最初の大学の学内誌みたいなものに外国人教師のインタビューが載っていて、学生もみんなまじめてすごく楽しい授業をしている、と語られていたのを読んで、すごくうらやましかったのだった。

 なにより、入試の段階で入り口を厳格に区切られてしまうことへの失望、というのはあった。経済を専攻に選んだら、いくら得意でも、もう国語や英語の教員免許を取る道は閉ざされてしまう、ということが、ぜんぜんわからなかった。事前にも知らなかったし、知ったあとも、どうにも納得がいかなかった。

 そういえば、この間、本の山のなかから、長いこと捜していたアダム・スミスの『道徳感情論』の原書が出てきた。こういうのを読むんだと思って大学に入ったつもりだったけど、とんでもなかった。これからでも読む機会があれば御の字、くらいか。その意味で、ぼくはずっと、卒業のない大学の一学徒にすぎないといえる。いつの日か読むために買った本だから、断捨離なんてとんでもないですね。ゆっくり急げ。

 

The Theory of Moral Sentiments

The Theory of Moral Sentiments

 

 


岬でまつわ JAGATARA(じゃがたら)1988年4月23日

 

 

You've Got To Have Freedom~英語は自動車の運転免許ぐらいふつうの技能になるのか

bête noire ▶noun(pl. bêtes noires pronunc. same) a person or thing that one particularly dislikes: 

 

seriatim adverb «formal» taking one subject after another in regular order:point by point:

 

foist verb (foiist someone/thing on)impose an unwelcome or unnecessary person or thing on: 

 

malodorousadjective smelling very unpleasant

 

splurge «informal»noun an act of spending money freely or extravagantly:

 

 unfurl verb make or become spread out from a rolled or folded state, especially in order to be open to the wind: 

 

dignitarynoun (pl. dignitaries) a person considered to be important because of high rank or office:

 

 

Oxford Dictionary of English

Oxford Dictionary of English

 

   相変わらず、勤めていた大学の夢を見る。

 しかも、昨日の朝夢に出てきたそこは高級デパートのように改装されていて、紀要(論文集報)の発行も、大出版社の編集部のようなところがやっている。で、ぼくが知っていたころはまだ経済だか経営だかの副手か何かだった人が、語学を駆使した大論文を書いているというので、自分はただただびっくりしている。

 で、一部分けてほしい、とそこを訪ねていくのだが、突然そこに当時の上長だった教授が現れて、きみはもう辞めたつもりかもしらんが、いまだにうちの学科の所属と思われて、スパイ行為だと言って売ってくれやしないよ、とむちゃくちゃなことを言う。

 あと、何やかや出てきたが、それはいいだろう。やがて目が覚めたが、妙に生々しい。

 あのころ若手だった人たちもきっと偉くなっているのだろうが、興味はないので、調べたりはしない。今どきの大学は、基本、語学も自前でできる人を採用して昇進させるだろうから、その点はきっと昔とは段違いかもしれない。

 英語は運転免許と変わらないぐらいごく普通の技能になる、という予言をどこで聞いたか、なんか最近聞いた記憶がある。そして、知の殿堂である大学が率先垂範してそれを実現してくれていればいうことはない。

 ただし…いや、「ただし」はなしにしよう。きっとどこでも、一部の語学屋を踏み台にしてその他が出世してゆくといった田舎企業めいた話は、もう過去のことになっていると信じよう。たとえいまそうなっていないとしても、やがて完全に昔話になるだろう、と。


You've Got To Have Freedom - Uptown Funk Empire

1987年のポキチ・ペキチ・パキチ

 私はかつて留学と国際機関勤務で米国に5年滞在しましたので、米国好きの部類に入ると思います。それでも、やはり今のネットを巡る米国支配という状況は、好ましくないし健全でもないと思います。

 

ネット帝国主義と日本の敗北―搾取されるカネと文化 (幻冬舎新書)

ネット帝国主義と日本の敗北―搾取されるカネと文化 (幻冬舎新書)

 

  もう古い本だが、どこか新古本店で買ったんだっけか。

 米国支配は、一面でどうしても英語の世界的地位の問題と結びつく。アメリカ英語が世界語のスタンダードとなったがためにアメリカへの富と情報と何より優秀な人材の流入が続いているように、北海道のへき地で語学を勉強している身には見えてしまう。

 話は飛ぶけれど、北米のどこかの地方都市で、北海道か東北のような気候のところに職を得て、ずっと帰国しない、という人生をたまに夢見ていた。もうぼくは歳だからその道はないけれど、姪たちの年頃の子には、それが可能なくらいの語学力や行動力を身につけてほしい。それでなおかつ日本の良さがわかって、米国支配の恩恵にあずかってばかりは潔しとしない、と思えたら、国際人としてなかなかのものだろう。

 いや、米国に永住など夢のまた夢。かろうじて実現性があったかもしれないのは、英検のたぐいを早々に極めてしまって、この北海道のどこかの都市で、街の語学屋さんとして比較的自由な暮らしを手に入れること。言ってることが小さいですか。

 現実には、たとえフリーランスであっても、何らかの経営主体との契約に束縛されることは避けられるはずがないので、これが夢想にすぎないのはよくわかる。でも、英検と簿記を教えられる人材がいたら重宝する、という専門校や予備校は、現実にありそうな気がするが。お前の代わりなんかいくらでもいる、という叱責が恒常的に行われる会社への就職より、少しはましだったのではないか。やはり夢想にすぎないのか。

 音楽も、ここ数年は、昔聴かずに済ませた80年代のヒット曲ばかり、今さらのように繰り返し繰り返し聴いている。iPodで鳴っている。

 


pok iti pek iti pak iti

 

 

旅の宿


旅の宿 吉田拓郎

 田舎だから、ご近所のおばさん方の顔を見たら「こんにちは」と言うようにしよう。これは励行していて悪いことは一つもない。

 このところ、散歩を日課にしている。少し歩いたくらいじゃ効き目はないのかもしれないが、いきなり長い距離を走ったりしてけがをしてもつまらない。

 24度くらいでも散歩すると汗びっしょりで、夕方だから、そのまま風呂を浴びる。さいわい世間も日曜日。

 いろいろ悩みは尽きないが、パソコンばかり見ていても身体によくない。ラジオを聴くというのもいい。今日はこれが流れていて、これもなんとなく夏の感じがある曲だなあと思った。これのB面が「夏休み」だった? 

 老母の眼科も済ませておいて安心した。とにかく何をやるんでも、本を読むというだけでも、元気でいなくちゃはじまらない。万事、それからだ。

 

逆転世界 (創元SF文庫)

逆転世界 (創元SF文庫)

 

 

 

イシュタルの船 (ハヤカワ文庫 FT 39)

イシュタルの船 (ハヤカワ文庫 FT 39)

 

 

 

 

 

影が行く (1967年) (ハヤカワ・SF・シリーズ)

影が行く (1967年) (ハヤカワ・SF・シリーズ)

 

 

 

My Little Crying~ ちっぽけな悲しみは胸にしまうこと


ZELDA my little crying

 気がゆるんでひとりよがりになっているかもしれない。

 ハッと気づいたのは、むかし一緒に学んだ女子学生のことを突然思い出したから。別々の大学から来て、たまたま大学院を一緒に受けたけれど、ぼくは受かり、彼女は入れなかった。研究生として一年頑張ったけれど、それでもあんなに入りたがって努力していた修士課程に進めなかった。

 その後、その子は病気で亡くなった。どんなにか、無念だったろう。

 彼女の無念さを思えば、甘ったれた愚痴なんか口にする資格は、自分にはない。ぼくがたまたま大学院に入れたのは、たくさんの人びとの理解と、ちょっとの偶然ががあればこそだ。こんなことも自分はわからなくなっているのか。

 一から出直しぐらいのつもりで。

 

 

カサブランカ・ムーン

This is not an autobiography nor is it a book of recollections. In one way and another I have used in my writings whatever happened to me in the course of my life. Sometimes an experience I have had has served as a theme and I have invented a series of incidents to illustrate it; more often I have taken persons with whom i have been slightly or intimately acquainted and used them as the foundation for characters of my invention. Fact and fiction are so intermingled in my work that now, looking back on it, I can hardly distinguish one from the other.

 

The Summing Up (Vintage Classics)

The Summing Up (Vintage Classics)

 

 

 

The Summing Up

The Summing Up

 

  この本が出てきて、うれしかった。持っているのはわかっているので、キンドルなどで買い直すのもはばかられ、かといって急に出てこないという困った状態だったけれど、書棚の奥から出てきたんだっけか。この夏は語学徒生活をリセットする意味で、この一冊があればいいんじゃないのか、などと思ったりもして、しっかし読みやすいよなあ。

 で、ロシア語のほうでも、読みやすい作家というのはいるので、そういうものをどっさり読んで、力をつけるとよい。

 …というふうに、どうもぼくの語学徒生活は英語とロシア語の二重生活なので、気がつくと英語だけになっていたり、ぎゃくに英語週刊誌がほったらかしという期間ができてしまったり、単語集も半端なまま放ってあったり、とバランスが難しい。

 むろん、二か国語など甘い方で、何か国語もできる人はきっとそういうメンテナンスのためのおさらいの方法もいろいろいいやり方を知ってるんだろうな。黒田龍之助さんなどはその代表格だろうけれど、どうも黒田さんの本は楽しすぎて、いまひとつ自分のような鈍重な知力の持ち主にはそのまま応用がきかない感じがする。

 わかっているのは、英語は十分やった、次はロシア語、というとき、ロシア語になかなか取りかかれないときがあること。その時はそのまま英語を読み続けてももいいことにする。それもやさしいものでいい。このあいだの『オズの魔法使い』なんか絶妙だった。そのうちふっと気分が変わる。

 この5,6年、種田輝豊さんとか新名美次さんとか、北海道出身のポリグロットの存在を知って大いに勇気づけられた。でも、今は、彼らの20か国語とか40か国語とかには、そんなに途方もなく惹かれることがなくなった。それは、本を読める外国語というのはふつうの人間の頭脳ではそんなにいくつもマスターできるはずがないのが実感としてわかったからでもあり、英語とロシア語の現に手もとにある本だけでも一生かかっても読み切れないことがほぼ確実だから。

 それでもドイツ語をもう少し何とかしたかったのはやまやまだし、何度も書いているように、ラテン語を履修する機会を逸し続けたのも悔いではある。

 あせらず。もう少し生きていられるはず。


Slapp Happy + Faust - Casablanca Moon (Live @ Cafe OTO, London, 10/02/17)