俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

腰まで泥まみれ

もう一度レーニンをアクチュアルに考えてみたい。そんな考えに多くの人が 最初に示す反応と言えば、辛辣な嘲笑の爆発といったものに違いない。マルクスならいい。ウォール街でさえ、今でも彼を愛している人びとがいるのだから。マルクスが展開した商品の詩学。資本主義のダイナミックな運動を完璧に描き出したマルクス。現代生活の疎外と物(象)化を写し出したマルクス! いいじゃないか! でもレーニンは勘弁してくれ。そんなことを本気で考えているのか! レーニンは、マルクス主義を実践しようとして失敗した代表例じゃないか。二〇世紀の世界政治全体にその疵跡を残したカタストロフ、それは彼の責任じゃないのか?[…]

 

迫り来る革命 レーニンを繰り返す

迫り来る革命 レーニンを繰り返す

 

  これはたぶん読まずに返すだろう。貸出延長の手続きをするのは簡単だが、その次にちゃんと返しに行ける時間が取れるかどうかわからない。図書館ふたつから7冊借りたって、二週間じゃ読めない。

 ぼくは、何であれ政治的活動に巻きこまれるのは耐えがたい。ゼニ勘定の意味での経済も、きわめて苦手だ。だから文学部の大学院に行ったようなものだ。勤めているとき、理系の教授らから、「なぜロシアの産業や政治・経済の研究をしないのか」みたいなことをほんの時たま言われるのは、いやだった。どうせブンケイなら文学も経済も一緒だろう、という発想で言われても、本当に困ってしまうのだ。

 経済を専門とする先生がたから、協力を仰ぎたい、と言われれば考えなくもなかったが、そういう形での関わり方も、なくてかえってよかったのだろう。ぼくが期待される方向にカンが働かないのは見え見えだからね。(追記:ぼくは「そんなこともあり得たはず」とまで思いあがってはいない。業績もないほんとただの語学教師だったから)

 ただ、政治と言っても、フーコーの「政治」とかは、日常使う「右」とか「左」とかとはちょっと意味が違うんだよな。ジジェクも、政治的でないとは決して言えない人だが、ありきたりの党派性を越えたところで面白いのだと思う。

 これはなかなかうまく言い表せないのだが、こんにち文学部の先生などが「世の中、経済だけがすべてではない」といったことを言うとき、この「経済」は「利益至上主義」の意味だ。しかし80年代にたとえば栗本慎一郎氏などが流行った時、彼が日本に根付かせようとした「経済人類学」の「経済」はもっと広い意味だった。

 たしか栗本先生は「理法」とか「統合の態様」とか言っていたが、人間の集団の中で、あるいは集団と集団の間で行われる、もの・サーヴィス、ひいては情報・知識・広い意味での神話といったものの交換なり循環のあり方全般を指して「経済」と言っていたように思う。

 それは「文化人類学」でいう「文化」が音楽や演劇・美術などのハイカルチャーを指すのではなく、人間の集団の行動様式のありかた全体を指すのとだいたい同じだったように思う。ただアプローチが違うだけであって、経済人類学(というものが今でもあるとして)の解明しようとすることは、文化人類学のそれとそんなに変わらないのではないか。

 「〇〇党政権の政治」というのと現代思想でいう「政治」というのも、ややそれに似た違い方をしているかんじがあって、だからこそついこんな本を借りてきたりするのだな。少し読んでから返す。

 今朝は早朝から起きていた。


腰まで泥まみれ