俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ダイヤモンド・ヘッド

 ソソ(スターリン)は、早世した兄弟とは異なり、彼だけが生き残って母親の愛情を受ける者となった。精神病理学者のフロイトは、母親の極度の愛情を受けて育った人間は、生涯にわたり征服者の感覚、つまりしばしば本当の成功に導く自己の運命への確信を持つようになると述べたが、まさにその通りだった。ソソは、母親の愛情と高い評価を一身にあび続けたことで、彼女が託した大きなことを実現する能力が自分に備わっていると考えるようになった。彼は母親に理想の子供として扱われるうちに、学校でも一つのミスも犯さないように努めるようになった。[…]

 

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

 

  北海道でも夏は30度を超えて暑い、というのは確かだが、35度という日はめったにないうえに、夕方、5時、6時になるとスーッと涼しくなる。夕立なんか来たら、あっという間に22,3度にまで気温が下がる。

 その意味で、このところは北海道らしからぬ暑さかもしれない。先日、札幌からの帰り、終バスを逃して中間地点で一泊したけれど、あのときはホテルを探してぐるぐる同じところを回っているうちに9時を過ぎ、ホテルに入ってTVの気象情報を観たらまだ25度以上あったのでちょっと驚いたのだった。街は短パン姿の観光客で遅くまでにぎわい、それも面白かった。

 で、7月の今が盛夏と考えればいいのかもしれない。ふつう夏の盛りは8月だろうけれど、ここ数年の感じだと、8月に入って、暑いなあという日が数日続いたと思ったら、もう秋の入り口みたいな風が吹いている。だから、もう今が夏本番と思って、せいぜい暑さを満喫するのがいいのかもしれない。

 数年前、八月の終わりに青森の親戚を訪ねて行ったときは、まだ空の色が夏らしい青さだったのが新鮮だった。北海道に降り立つと、その時期はもう、内地に比べればはっきりと秋の空気なのだ。

 あと二カ月もすれば、もう夏ジャケットの季節も終わって、厚ぼったい上着を着て外出する季節になっていることだろう。

 29年前。学習塾のバイトくんだったころ、夏期講習が終わったお休みの時期に、本屋でNHKラジオのロシア語講座のテキストを買った。そして一時期親しかった人が話していたパール・バック『大地』など読んだ。『大地』は中国を描いた長編小説だから、たしかラジオの中国語講座のテキストも買ったのだろうか? いずれにしろ人生の大きなリセットの機が熟しつつあった。あの年も、暑かったと思ったら、あっという間に秋が来たのだった。


The Ventures - Diamond Head (1965)

 

 

愛と誠~へらへらぼっちゃん

 十六歳で歌手になろうと思い、十九歳でレコードデビューした、というと、一見、なかなか順調やないか、と思う人もあるかもしれぬが、そうではない、その後が悪かった。レコードがちっとも売れぬのである。通常であれば、その時点から下積み生活、旗を持って田舎のレコード店を回って蜜柑箱の上に立って歌を歌い、宣伝にこれ務める、放送局に行って土下座をする。キャバレー、アルサロなどで酔漢の野次と怒号のなかで謝りながら歌う、なんてことをするのだろうけれども、どういうわけか自分は、そういう地道なことが大嫌いで、考えた揚げ句、なるべくいい曲を書けば売れるのではないか、ってんでいろいろ勉強して、自分でも、こいつぁいい、と思う曲をいくつか書き、またレコードを出す、コンサートをやる。ところが、また売れない。反省して書く、もっと売れない、もっと反省して書く、ますます売れない。努力すればするほど売れなくなっていくのである。

 

へらへらぼっちゃん (講談社文庫)

へらへらぼっちゃん (講談社文庫)

 

  町田康の文章は、まあまあだ。まあまあ、というのは、作為的なとぼけが見え見えの場合には目をつぶってあげる必要もあるから。

 たとえば、この本じゃないけれど、いつだか公民館に行って地方紙を読んでいたら町田氏がコラムを書いていたのだが、友人と将棋を差し、最近は多様性が大事だというから碁石も盤上にまぜたら、友人がお前とは将棋を差せないといって帰ってしまった、という内容だった。これはまあ、町田氏だから許されるので、こういうおとぼけはふつうは身内の間柄でだけ言うものだ。

 ぼくも、テレビでサッカーの中継をやっているときなど「ばっかでえこいつら、抱えて走り込めばいいじゃねえか」などと言うことはあるのだが、むろんおうちにいてくつろいでいるからこそ言うので、たとえば研究滞在に行った先の大学でこんなことばかり言ってたら、かなり深刻な苦境を招くだけだろう。

 ああそうだ、正月の箱根駅伝というのも老母が観るので一緒に観ることが多いけれど、やはり「こいつらバイクの免許持っとらんのじゃな。走っとるぞ」などと言うと、老母や年賀に来た妹らもひじょうに困った顔をしている。これは亡くなった祖父の岐阜弁をまねて言っているのだが、そうか祖父の影響もあるのかもしれない。子供のころ、祖父と一緒にふろに入り、水の上を歩く方法だとか、おならでろうそくの灯を消す話だとかを聞いて育った。

 祖父は老母の実父。むことしてうちに来た亡父は冗談のいっさい通じない人で、この二つの血がせめぎ合っているぼくもなかなか自己統御が難しくて、けっこうこれで大変なのだ。ふざけてんのか、と言われる場合、たいていぼく自身は大まじめだ。


愛と誠・完結篇/早乙女愛・加納竜/予告篇

 

 

愛しのティナ

"I cannot understand why you should wish to leave this beautiful country and go back to the dry, gray place you call Kansas."

"That is because you have no brains," answered the girl. "No matter  how dreary and gray your homes are, we people of flesh and blood would rather live there than in any other country, be it ever so beautiful. There is no place like home."

 

The Wonderful Wizard of Oz (Oz Series Book 1) (English Edition)

The Wonderful Wizard of Oz (Oz Series Book 1) (English Edition)

 

  札幌では、夕食を誘われて楽しいひと時だった。東区の、たぶん地下鉄駅からだと歩いていくのかかなりめんどうそうなそば屋兼居酒屋。

 居酒屋でジャズが流れているのは二十数年前くらいからまったく当たり前のことで、そのことは別におどろきでも何でもないが、しかしふだん田舎の実家にこもりきりの身ではそういう店に行くなんてことはないので、いっときピアノトリオの流れるこじんまりした店でノンアル飲料を飲んでいると、ああ、忙しい勤めがあってたまにこんな店でほっとできるというのがいいんだろうな、と思ったりした。

 ふだんもこの部屋の廊下をへだてた私設研究室でそういうものは鳴らしている。ただ、都会の喧騒にまぎれてジャズ喫茶や蕎麦居酒屋の暗がりで孤独を堪能する…といった感じとはもうだいぶ違う。都会のどこかで一人きりの時間をかみしめているときは、寂しくなかったと思うのだ。いまは、何を聴いても、あとにはCDの静止する音とともに、しんとした寂しさがやってくる。

 昨夜も、何か明るい夢を見ながら眠っていた気がするけれど、もう思い出せない。おうちにいるのが何より好きな自分だが、おうちのあまりの居心地の良さにときどき自家中毒を起こして、文字通り何もできなくなることがある。だから、あえて数日よそに出かけるのは、その意味でも吉だ。

 特急のなかで読んでいたのは『オズの魔法使い』で、ずっと読まずに積んであったもの。旅行の前日、ひっつかんでかばんに入れておいた。もちろん平易な英語だからだが、少し気分が変わるだけですいすい読める。


和田静男 "SIZ WADA" - 愛しのティナ-

ファッシネイション

[…] というものの、われわれの周りで、チェコ文学史または小史というものを手に入れるのは容易なことではない。それは日本語の問題であるばかりでなく、英仏語においても事情はあまり変わらない。イタリアを除外していいと思われるのは、この国にはアンジェロ・マリア・リッペリーノという途方もなくすぐれた東欧文学専門家がいて、『現代チェコ詩史』(一九五〇)とか『魔法のプラハ』(一九七三)といったチェコ文学史を書いているからである。とにかく、専門家でもない人間が騒ぐと邦訳がでるという現象は、バフチーンの場合にも起こったことであるから、あるいは瓢箪から駒ということにもう一度ならないとも限らないかもしれない。

 

トロツキーの神話学

トロツキーの神話学

 

  たそがれどき、冷房の効いた特急列車に乗って帰路についたのは昨日のこと。右側に満月が出ていて、まだ明るい夕空にそれがくっきり浮いているのを眺めつつ、おうちに近づいていくことでどんどん気が軽くなっていった。

 列車は適度に空いていて、知らない他人ととなり合わせという席もほとんどなかったのではないだろうか。二人掛けの席は、どこも友人か家族同士のようで、みなビールを飲んだり弁当をひろげたり、くつろいで楽しそうだった。

 ぼくは学会を中座して札幌駅に向かうのに汗まみれになってしまい、おまけに大丸の地下にしか売っていないルタオというお菓子をお土産に買っていこうと思ったが、もう大丸に寄っている時間もなかった。改札を抜けて、なかにある売店で「白い恋人」を買い、ホームへ上がるのがやっとだった。

 研究滞在中の数日を思い返しつつ、なんだか夢のような気分だった。いや、うちにいるのに慣れ過ぎて、四泊は正直なところきつかったので、三泊にしたのだ。帰る時も、ああおうちに帰れる…とそのことがうれしかったのだけれど、一方では、数日いたくらいでは目を通すことも必要個所をコピーすることもできないくらいの原書のひと山に出くわしてしまった。あれを片っ端から読む、それができるならどんなによいだろう。

 あせってもいいことはない。生きていれば、いま実現せずに憧れているだけのことのいくぶんかは、実現に持って行ける可能性がある。いまこのサーフェスに入っているPDF化された本をあらかた読んでしまってからでもいいんじゃないか。それならおうちにいながら毎日少しずつ実行できる。河内音頭を聴きながら、毎日少しずつやればいいじゃないか。

 実は昨夜も、終バスに間に合わず、けっきょく中間地点で投宿。でも、なんかいろんな意味で安心して、ぐっすり眠った。夢のなかではみんな笑顔だった。


門あさ美/ファッシネイション

 

 

負債としての読書

「いや」ぼくは声に出して言った。今は『劇場物語』を読もう。誰がなんと言おうと、世の中で『劇場物語』が最高だ……

 ぼくは本棚からブルガーコフの一巻ものを取り出すと、指でやさしくもてあそび、てのひらでスベスベした背表紙を撫であげた。もう何回目になるだろう、本を生身の人間みたいに扱うべきではない、いけないことだと自分に言い聞かせたのは。

 

モスクワ妄想倶楽部

モスクワ妄想倶楽部

 

  二九年まえの夏、塾バイトのあんちゃんに過ぎなかったぼくは、けっして文学青年と言えるほどの小説読みではなかった。どちらかといえば社会科学と評論の中間のような本を読むことが多かったので、深夜まで開いている古本店で買ったのは清水幾太郎だったりしたのだった。

 それと同時に、その古書店ではどういうわけかソシュールの翻訳で名高い小林英夫の戦後すぐの本が買えたりしたのだ。これは大きかった。理論的な考察の大半はすでに効力を失っていたかもしれなかったが、小林が語学遍歴を書いたエッセイなどは強烈に心に刻みつけられた。

 どうやら、名のある学者はみな、語学の達人なのだということがわかってくる。そこからの再出発だったのだ自分の場合。だから文学青年たちが普通に、ときに原書で読んでいるものを若い時に読んでいないことが、その後、ずっと負い目になった。

 外国語の文学書は、1日や2日では読めない。数日から二週間の集中がどうしても必要だ。才能に恵まれた人は二十歳前後でそのコツを会得できるが、ぼくの場合は人よりは十年は遅れている。

 で、もう過ぎたことはいいので、これからのことを考えよう。具体的には、この夏のこと。読まなくてはならない本がどっさりあるので、少しずつ片付けよう。イリフとペトロフの英訳も読みかけのままだし、ジャック・ロンドンというのも宿題のままになっていて。新知見を得るというより、自分の場合外国語の読書は決まっていつもコツコツ負債を返していく感じだ。1日や2日で読もうとせず、毎日のペースを確立すること。それしかない。

 

The Iron Heel (English Edition)

The Iron Heel (English Edition)

 

  以下の動画は面白い。My name isは「拙者~でござる」という意味で誰も使わない、などという「英会話」の世界の都市伝説を実証的に否定して見せる。My name is~はふつうに英米のTVやラジオを聴いていれば、ひんぱんに耳にする。


「My name is」は死語!?(実験編)【#39】

Green Fields~7月あたま、冬の寒さのことをすでに考えている

 死んだようにといえば、帯広の冬場の「しばれ」は一様尋常ではなく、週一度の朝礼のときも、あちこちで、バタンバタンと音がした。体の弱い子供や粗末な靴下しか履いていない子供が寒さのために気絶するのである。私はといえば、ふと気が遠くなるときが何度かあったが、どうにか耐えた。というより、気が遠のく一瞬の物音のしない静かな世界、それが私にとっての帯広だったのであろう。

 

寓喩としての人生

寓喩としての人生

 

  ここを引いておきたくて、何度か書庫を探したけれど、この本は二階の書棚にあったのだった。

 ある人によれば、これは話を「盛って」いるんじゃないか、ということになるけれど、北海道在住者のぼくとしては、戦後すぐの帯広ならあり得た話かも、とも思う。

 メモ代わりに。

 ブラザーズ・フォーは、就職して一年目に、研究室のラジカセにヘッドフォンを差して繰り返し聴いていた。


Green Fields - Brothers Four (CD Quality)

 

 

これが鉄砲節だ~「不意にやってきた」研究業績は本当に偶然やってきたのか

 かくてはならじと焦っていると、横浜国大の経済学部の助教授にならないかといわれ、環境が変われば新境地が開かれるかもしれないと切なく期待して、その申し出を受けた。そういう申し出が来たところをみると、お前は研究業績を挙げるべく努力していたのであろう、といわれるかもしれない。しかし違うのだ。私の「業績」らしきものは不意にやってきたのである。ある数理経済学の模型がなかなかうまく完成しない、ということがその方面の研究者のあいだで少々話題になっていた。大した模型ではないのだが、ともかくその問題をめぐる「パズル解き」が難航していたのである。そして私にもそのことが気がかりであった。何度かそのパズル解きに挑戦して失敗してもいた。ある日の昼下がり、私は西武線高田馬場駅のベンチに座っていた。前夜、朝まで素人博打をやり、どこぞの安宿に泊って、帰宅しようとしていたのである。翌日は、数理経済学の世界的権威といわれていたある教授のセミナーが開かれる。彼はかならず、俺が何をやっているか、尋ねてくるだろう。まさか博打と酒ですともいえないしなあなどと思いながら、例のパズル解きをやり出した。電車を何回かやり過ごしながら、紙と鉛筆であれこれやっていると、ぐしゃぐしゃになっていた私の頭が、突然に、そのパズル解きをやってしまったのである。

 

寓喩としての人生

寓喩としての人生

 

  こういうことって、たまに見聞きするんだよなあ…と思いつつ、ポストイットを貼っておいたので、引いとこう。

 山口昌男にしても西部邁にしても、北海道人とはいえ、東京へ出て日本一の大学に行った人たちだから、北海道に帰ってきてほそぼそと学問を続けるぼくの参考になるわけではぜんぜんない。それでも、この二人が自伝的なことを書いた本は読まずにいられなくて、この本も繰り返し読んだ。参考になることばかりではなく、そりゃ違うだろう、というところもなくはないけれど、たまに読み返したくなる。たぶん北海道人以外には面白くもなんともないところもあるだろうな、などとも思う。

 この、学問的業績の話は、ぼく自身がそういう「ひらめき」の効用をいい歳になるまで信じていたこともあって、それで印象に残っているというのはあると思う。数学者などの話として聞くことがあるけれど、ぼくも、わずかな業績の一つを思いついたときの情景をありありと思い出せる(がそのことは書かずにおこう)。

 ただ、これは本人が誇張なくありのままを書いているのかどうかは、ぼくらにはわからない。たとえこのとおりだとしても、何度か挑戦して、その時はうまくいかなかったという点を見逃してはまずい。人間の脳は絶えず気になる課題については仕事をしているもので、このとき高田馬場駅のベンチに座って紙と鉛筆であれこれやる前に、脳のどこかでは解答が半分でかかっていたのかもしれない。その意味で、労せずして成果を挙げたという意味にとっては間違いになる。

 連休に作った子供向けの電子工作のラジオ、いまもよく鳴っている。鉄砲光三郎なんかかかることはほとんどないけれど、近田春夫氏がNHK第一の番組で、たまに浪曲やそんなのをかけていたのを思い出す。

 短パンを出す。北海道の短い夏の始まり。


これが鉄砲節だ(河内音頭) 鉄砲光三郎