俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ファッシネイション

[…] というものの、われわれの周りで、チェコ文学史または小史というものを手に入れるのは容易なことではない。それは日本語の問題であるばかりでなく、英仏語においても事情はあまり変わらない。イタリアを除外していいと思われるのは、この国にはアンジェロ・マリア・リッペリーノという途方もなくすぐれた東欧文学専門家がいて、『現代チェコ詩史』(一九五〇)とか『魔法のプラハ』(一九七三)といったチェコ文学史を書いているからである。とにかく、専門家でもない人間が騒ぐと邦訳がでるという現象は、バフチーンの場合にも起こったことであるから、あるいは瓢箪から駒ということにもう一度ならないとも限らないかもしれない。

 

トロツキーの神話学

トロツキーの神話学

 

  たそがれどき、冷房の効いた特急列車に乗って帰路についたのは昨日のこと。右側に満月が出ていて、まだ明るい夕空にそれがくっきり浮いているのを眺めつつ、おうちに近づいていくことでどんどん気が軽くなっていった。

 列車は適度に空いていて、知らない他人ととなり合わせという席もほとんどなかったのではないだろうか。二人掛けの席は、どこも友人か家族同士のようで、みなビールを飲んだり弁当をひろげたり、くつろいで楽しそうだった。

 ぼくは学会を中座して札幌駅に向かうのに汗まみれになってしまい、おまけに大丸の地下にしか売っていないルタオというお菓子をお土産に買っていこうと思ったが、もう大丸に寄っている時間もなかった。改札を抜けて、なかにある売店で「白い恋人」を買い、ホームへ上がるのがやっとだった。

 研究滞在中の数日を思い返しつつ、なんだか夢のような気分だった。いや、うちにいるのに慣れ過ぎて、四泊は正直なところきつかったので、三泊にしたのだ。帰る時も、ああおうちに帰れる…とそのことがうれしかったのだけれど、一方では、数日いたくらいでは目を通すことも必要個所をコピーすることもできないくらいの原書のひと山に出くわしてしまった。あれを片っ端から読む、それができるならどんなによいだろう。

 あせってもいいことはない。生きていれば、いま実現せずに憧れているだけのことのいくぶんかは、実現に持って行ける可能性がある。いまこのサーフェスに入っているPDF化された本をあらかた読んでしまってからでもいいんじゃないか。それならおうちにいながら毎日少しずつ実行できる。河内音頭を聴きながら、毎日少しずつやればいいじゃないか。

 実は昨夜も、終バスに間に合わず、けっきょく中間地点で投宿。でも、なんかいろんな意味で安心して、ぐっすり眠った。夢のなかではみんな笑顔だった。


門あさ美/ファッシネイション