俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

メディアとしての河内音頭~『東京殴り込みライヴ』のLP盤が鳴る夜


第35回すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り 2016年 堺家小利貴丸 Kawachi Ondo (bon odori) in Kinshicho, Tokyo 

 今日、午後の時間、老母がワイドショーを観ていた。有名なキャスターが、歌舞伎評論家の何とかさんと中継でつながって熱く語っていた。曰く、歌舞伎って、シリアスなものだけじゃなく、ドタバタもコメディもありなんですよね、と。

 歌舞伎のことはぼくは生で見たこともないし、よく知らないけれど、老母はTVでやっているとよく観ている。平成中村座のニューヨーク公演というのは、あれは何年前だろう。まだ地デジ移行前だったような気がするけれど、深夜まで老母と一緒に観ていた。なるほど、アメリカ人の演劇評論家が当時書いていた通り、「性的なコメディ」だなというのは強く印象に残っている。

 その後のドキュメンタリー映画などでも、中村勘三郎は、歌舞伎は同時代的演劇で、江戸時代にエレキギターがあればどんどん取り入れていたはず、といった発言をしていた記憶がある(これはどこかに録画をとってある)。「傾き」と書いて「かぶき」と読み、「傾奇者」といえば、70年代イギリスの奇矯なグラム・ロッカーに近い語感がある。

 で、亡くなる前のはかま満男氏がNHK-FMの『日曜喫茶室』で、こんなことを言っておられたことも思い出す。こないだ浪曲を観に行ったらさ、乃木大将のことをやっているんだ。日露戦争だよ。あれじゃあ今の人はわからないよね。浪曲はその時その時のニュースを読む媒体だったんだからさ、政権交代とかやりゃあいいのにね、といった話。2009年ごろだった。

 で、世界を見渡しても、トリニダード=トバゴのカリプソなどは単なるダンス音楽じゃなくて、その時々の政治ネタを歌詞にして風刺的に歌うものなのだ、ということが70年代中頃の『ニュー・ミュージック・マガジン』誌で書かれるようになった記憶があって、同誌にやがて藤田正氏による画期的な河内音頭ルポが載るようになったのは、もう必然の流れだった。河内音頭は、時事ネタ政治ネタ、何でも取り入れて今を生きる、コンテンポラリーなポップ音楽だ。

 ただ、当時はLP盤の時代。アマゾンもないし、こういう地域限定音楽は、モノが流通しない。そこでブラックミュージックに強い独立レーベルが河内音頭のライヴ盤を企画、発売した。なつかしいな。

 今はこれの完全盤というCDも出ているらしくて欲しいけれど、がまん。LPは持っている。針が飛ぶ個所があるが、かまうものか。ひと夏これを聴いてたっていい。ほんと、七五調の湿っぽさを一蹴する底抜けな音楽。

 いろいろあったが、今さらくよくよしたってはじまらない。京山幸枝若みたいに、どんとかまえよう。

  追記:上の動画のギター奏者の見事な奏法に、改めて驚く。

東京殴り込みライヴ『完全盤』

東京殴り込みライヴ『完全盤』

 

 

 

七つの水仙~とれたてのキャベツの甘味

 老母が畑をやっているが、うちは農家ではない。経済合理性から言えば、畑をやる手間はたいへんで、野菜など、買った方が安いという主張はある程度うなずける。というか、ぼく自身も、なぜ老母がしんどい身体に鞭打って今でも決して狭くない畑をやっているのか、どうやら十分わかっていなかった。

 キャベツは、まだ寒い三月から家の中で種から育てて、やがて畑に移し、いま食べごろだ。そのことがどれほど尊く、ありがたいか。

 「キャベツきざむかい」と老母が言うのは、もう口癖だ。それぐらい、野菜嫌いのぼくに、何とか自家製のキャベツぐらいは食べさせたがっている。それを、嫌いだとか飽きたとかは、言ってはいけない。外地から命からがら引き上げてきた老母にとって、自分で作ったキャベツが好きなだけ食べられる今という時代は、ほんとうに夢のようなのだ。

 言ってしまってから強く後悔し、謝った。夕食のキャベツ炒め、ぼくがもう食べないと思ったのだろう、老母が少量だけ作ったのを、半分分けてもらった。いつも決まった種苗会社から種を取り寄せる何とかいう品種だ。スーパーで買うものより甘みがあって、やわらかくて、新鮮で、毎年これを食べられるのが当然のことだと思っていた自分の思い上がりを深く恥じた。

 奥の間で、亡父の遺影が笑ってる。稼ぎもないくせに母さんにわがまま言うなよ、お前の悪い癖だぞ、と。


Brothers Four - Seven Daffodils

銀の雨

「一雄は強い子ですね」

「はい」

と私はしっかり云った。

「苦しいことにも泣かない子ですね」

「はい」

と私は重ねて云った。

「私は、いつまでもあなたのお母さんにちがいないけれど、もう母さんと呼べなくなるかもしれませんよ」

 声がつまって答えられなかった。

「けれど決して泣かないことを約束しましょうね。母さんも泣きません」

「はい」

「そうして、いつまでもここにいらっしゃい。ここで偉くなって下さいね」

「はい」

と私は肯ずいた。

「お別れに、この雑記帳に名前を入れて上げましょうね」

母は色鉛筆を丹念にといでいった。二十四色を一本一本けずり上げると、その青で名前を入れたが一冊ノートの中にだけ私に読めぬ文字を書いた。

「これはね、カンナンナンジヲタマニスと読むのです。どんなに苦しい悲しいことに会っても、それに負けなかったら雄々しい立派な人になるというのです。[…]

 

花筐・白雲悠々―檀一雄作品選 (講談社文芸文庫)

花筐・白雲悠々―檀一雄作品選 (講談社文芸文庫)

 

  遅い夕食を老母と。なんで遅くなったかと言うと、ちょっと寝るから、とぼくが言って奥に引っ込んだから。それで老母は声をかけずにいた。ぼくはそれを半分忘れて本を読んでいて、今日はずいぶんご飯遅いなあ…と思っていた。

 どっちみち何もしない生活だから、おなかもすかない。晩ご飯があんまり早すぎると、寝る前に何か食べたくなってNG。

 まだ夏至の前だけれども、今年も夏はあっという間に終わるだろう。いつも月の数に六を足しては、半年後はまた真冬だなあ、とため息をつくことの繰り返しだ。あと幾度、これをくり返すのだろう。

 とりあえず、今は夏の雨が降る季節で、七月と八月の出張を終えたら、ずっとやってきたこともそろそろ総まとめになっていくだろう。師友に恵まれた、なかなかの人生だったけれど、きちんとご恩を返していないどころか、借りが増えてゆくばかりで、山積した難問は一つも解決していない。


銀の雨 松山千春

 

朝日のあたる家

  例えば、「トッポい」「イカレる」「ラリる」……といった表現を説明してやらなければいけないのだ。それも手紙で、それも日本人に対して。まあ、それだけだったらまだ何とかなる。日本人に対して、「潜水艦」が学生言葉で「学業不良」を意味し、「赤点」と同じだとか、「エグい」が「素晴らしい」の方の「すごい」を意味することを日本人に説明するのはつまるところそんなに難しいことじゃない。だけど、「フィグでもくらえ」のような表現はどうしたらいいんだ。先ず第一に、高見氏が「フィグでもくらえ」を「おみやげに熟した甘い無花果[フィグ]を差し上げる」の意味に取らないように、「馬鹿握り」のことであるフィグを字義どおりのイチジクの意味とはっきりと区別する必要がある。第二に、「馬鹿握り」を意味するフィグの指の形は日本人にとっては、ヨーロッパ人と、少なくともロシア人とは違った意味を持つこと。この三本指を使ったさほど複雑でないこの形は、かつて日本では、街娼たちが客を取るさいのしるしに使ったと…[…]

 

モスクワ妄想倶楽部

モスクワ妄想倶楽部

 

  今日も雨。20℃に届かない。涼しくていいけれど、日が暮れると寒いほどだ。これでも朝方はセミがうるさくて、初夏らしかったのだけれど。

 レトルトのカレーがこのところお気に入りだ。先日老母が、外出した時、天丼を食べきれずにエビ天を二本、袋に入れてもらって持ち帰ったときも、一本もらってライスの上に置き、そこにカレーをかけたらおいしかった。そんな料理はどこでも見たことがないけれど、けっこうなごちそうだった。

 7月の出張の予定を決めてしまう。誰かに相談してからと思わなくもなかったが、あくまで自分のことだから、ひとに決めてもらうまでもないこと。準備がぜんぜんできていないが、できる範囲で資料収集をしてくればいいくらいのつもりで。

 あとは、各種料金の払い込み。寄付金なんか払う余裕もないけれど、少し振り込む。あと、シャンプーとヘアトニック。トニックは、アマゾンで柳屋の安いのを買ってもいいのだけれど、薬局の店頭で、ひさびさマンダムを買ってみる。気分転換のつもりで。

 このところチャーリー・バードのCDばかり聴いている。高校くらいで、こういう渋いものに目覚めていれば、もう少し落ち着いた、着実な人生だったかもしれないが、まああのころはパンクロックの世の中だったからなあ。でもなんか、30年前、マイルスとミシェル・ルグランの共演した『ルグラン・ジャズ』を聴いていたころのことを、鮮明に思い出す。あのなかの「ジャンゴ」が、やけによかった。あのまま地味に学習塾の講師をしていれば、もっと早くこの境地だったか。

 今日も聴いている。飽きない。ガットギターの音色の地味さが、なんともいい。


House of the Rising Sun - Charlie Byrd Style Solo Jazz Guitar

 

 

Nice Work If You Can Get It~雨のなかコップを買ってきた

 もう何度となく考えたことだが、文学の場合、人間の内面の世界については、どんなにリアルなものであっても、近似的にしか現実には対応できないものだ。ぼくはなんとか思い出そうとしていた。いったい世の中の文学作品で、今のぼくの状況や、それに似た状況に主人公が置かれた場合、なんのためらいもなく言下に、自分は行く意志はないと表明するようなケースが、たとえ一作でもあっただろうか。読者は主人公にそんなことを望むわけがない。そこで、やはり主人公は出かけることになり、幾千の障害を克服し、ヒロイズムの奇蹟を成し遂げるのだ。ところが、それでもやはり、編集者はもちろん読者の目にも、主人公は何だか薄汚れた感じを与えてしまうのが常じゃないだろうか。

 

モスクワ妄想倶楽部

モスクワ妄想倶楽部

 

  コップを買いに行った。

 いやなに、ワイングラスみたいなやつ、あれでノンアル飲料を飲んでたんだけれど、老母が洗おうとしたらひびが入っているというので。見たら、ほんとだ。危ないのでそちらは捨てることにした。

 で、今日は、同じようなワイングラスと、ふつうのコップと、タンブラーというやつ、それぞれ一つずつ。どうせ安物だが、気に入ったコップがあると楽しい。

 もうお酒を飲まなくなってだいぶ経つけれど、むかしはほんと、夕暮れにビールをくいっとやるのが最高で、そのためのコップは毎日だいたい同じのを使っていた。今でも、書庫兼物置きのなかでそのころの食器など出てきたりすると、昔のことがよみがえったりする。ほんといろいろあった。

 BS-TBSの月曜にやっている『酒場放浪記』は、だいたい毎週観てる。吉田類さんという、美術家・物書き・俳人らしい人が居酒屋に入って刺身や焼き鳥を食べてビールやホッピー、日本酒を聞こし召して…という趣向の番組だけれど、むろん、仕込んであらかじめ入念な打ち合わせ済みなのは観てれば何となくわかる。それでもこの番組は飽きずにずっと観てるなあ。同局では女性リポーターが飲み歩く『おんな酒場放浪記』も別の曜日にやっていて、そっちも二週にいっぺんぐらいは観ている。

 今日は雨。初夏ではあるが、ストーブをたくことがある。ほんとに夏のはじめらしくなるのは来週からだろうか。今日は、コップは買ったけれど、レトルトのカレーを買っておくのを忘れた。シャンプーやヘアトニックも切れかけている。

 チャーリー・バードのアルバムを繰り返し聴く。ガットギターを自在に操り、ちゃんとスイングしてる。あったかくて、なおかつクール。ほんと素晴らしい。


Charlie Byrd - Nice Work if you can Get It (1960)

ジャンゴ~英国の選挙結果のことを英語で読みつつあれこれ

May tries to soldier on, find allies

 

 『ジャパン・タイムズ・オン・サンデー』6月11日号、一面がこれ。soldier onは carry on doggedly, persevere≒「頑張る」。英国の総選挙でテリーザ・メイの保守党が過半数割れ政権運営が難しくなったことはTVでとうに報じられているけれど、記事で読むといろいろわかる。緊縮財税が若者層に嫌われたことが今回の負けに通じ、メイは北アイルランド地域政党DUPとの連携を模索するが、

Cutting a deal with DUP,which won 10 seats, may not be straitforward. The party's opposition to abortion and same-sex marriage places it at odds with modernizing Conservatives.

 DUP同性婚や妊娠中絶に反対しているため、保守党を近代化することとは相いれない、という。

 他の記事では今回のメイ首相の乾坤一擲の勝負の惨敗をMayhemと表現する。

mayhem ▶noun[mass noun] violent or extreme disorder; chaos:

 

Oxford Dictionary of English

Oxford Dictionary of English

 

 

 リーダースには「大混乱」とあるが、これと首相の名字Mayをかけているわけだ。

 ずいぶん昔、森喜朗が首相だったころ、政権が死に体と化した時、やはりどこかの英語メディアはMori-bundと表現した。

moribund ▶adjective (of a person) at the point of death:

 ■(of a thing) in terminal decline; lacking vitality or vigour:

 これもうまい表現だと思った。

 ついでに「乾坤一擲」とは

けんこん・いってき【乾坤一擲】運命をかけて大勝負をすること。

 

大辞林 第三版

大辞林 第三版

 

 

 

 

 

骰子一擲

骰子一擲

 

  ローリング・ストーンズ「ダイスをころがせ」は、むかし、『メインストリートのならず者』に入っているのを何度も聴いたが、売っちまった。マラルメのことはぜんぜん知らない。

 なんでもいいが、チャーリー・バードって、ほんといいギターを弾くなあ。これさえあればあとは何も要らんという初夏。


Charlie Byrd - Django

 

 

B Flat Blues

ウィントは次のように書いている。「モレッリの著作は、芸術についての当時の他の出版物とはまったく異った外観を示していた。その本のあいだには、指とか、耳とかの挿絵が撒き散らされていたからである。それらは、個性的特徴を示す注意深い記録であって、ちょうど犯罪者が指紋によって割り出されるように、それらによって芸術家は自己を露呈してしまうのである。モレッリが研究対象とした美術館は、いずれもその研究によって最初はまるで贋作者用陳列場のような観を呈したのである」。この比喩を美術史家のエンリコ・カステルヌーヴォはみごとに発展させ、モレッリの推定方法を、ほぼ同時期にアーサー・コナン・ドイルシャーロック・ホームズに割りあてた方法になぞらえている。[…]

 

神話・寓意・徴候

神話・寓意・徴候

 

  N野充義先生の本を読んでいると、ラジオでロシア語放送を聴く方法が紹介され、ラジオの作り方が回路図付きでくわしく載っている。あれ、N野先生が電子工作? こんな本だっけ? と思っていると目が覚めた。

 相変わらず変な夢ばかり見るが、それを日記の片隅にちょこちょこメモしておくと、あとで読み返して、何とも不思議な気分になって面白い。

 モレッリという美術学者のことはよく知らないのだけれど、その方法をフロイト精神分析シャーロック・ホームズの推理法と等置する議論が面白くて、この夏はちゃんと読もうこれ。ホームズ物も、読んでないのがkindleに入ってる。フロイトも入ってる。

 19世紀末の文学なり思想はとっくに無効、という考え方もあろうけれど、現代思想の源流としてニーチェフロイトマルクスらのドイツ語圏のひげ面の変人たちの名をあげる文献は今でもよくある。遅ればせながらそういう勉強をしたい気がするけれど、そのために大学に籍を置く必要は必ずしもない。大学にはたまに訪ねていくだけにして、あとは自分で本を読んでいけばいい。

 昨日、さる方からTEL。いま大学に職を求めることはしているのか聞かれ、その道はもう考えていませんよ、といった話。ほんと、もうそっちはいい。

 日の長さを基準にすれば、いまがミッドサマー。こないだまで冬だった気がするけれど、早いものだ。夏至も近い。


Bud Powell - B-Flat Blues