俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

せっかく電子辞書に入っているのだから百科事典も引こう

 私はセイコーインスツルの電子辞書を使っています。オックスフォード新英英辞典、ロングマンの辞典のほか、『日本国語大辞典』、『角川類語新辞典』など、日本の主要な辞典が入っているんですが、平凡社の『世界百科大辞典』が入っているから購入を決めました。[…]

 

知の操縦法

知の操縦法

 

  図書館で三冊返却、二冊を延長してもらい、さらに新たに三冊借りた。そのうちの一冊。例によって、外国語が頭に入んないときはこんなのを読んで一日が終わったりする。

 百科事典の読み方を指南している部分は、実は期待していなかったが非常に面白い。なぜウィキペディア(だけ)ではダメか、といったことも。「ロボット」という語の定義のうつりかわりを時代を追って見たあと、著者はこう言うのだ。

 でも、この80年で何が変容したのかというのは、もしかしたら80年後の人類にはわからないかもしれません。Wikipediaのように毎日改訂されているものは、80年後にも改訂され続けています。ロボットをめぐる80年間のギャップを我々が知ることができたのは、紙の百科事典があるからです。

 ロシアやドイツで紙の百科事典を出す事業が国家的に続いているのは、「ある時代における自国の知識の総合体系がどうなっているのかを残すのが国家としての責務」だと考えられているからというところ、はじめて知る話ではあった。

 一番上の引用でああねえ…と思うのは、セイコーインスツルの名が挙げられているからで、さすが元外交官、でもたしか同社は電子辞書の事業からは撤退したのではないか。プロ向けの電子辞書として以前から耳にしていたし、昨年暮れ、10年以上使ったカシオのEx-Wordが破損し始めた時、真っ先に調べたのはセイコーインスツルのことだった。一度、ほんとの語学プロ仕様の電子辞書を使ってみたいものだと思った。が、どうも同社は電子辞書から手を引き、今では店頭在庫分か、中古品しか手に入らないらしい、と知って、けっきょくまたカシオに落ち着いたのだったっけ。

 今見ると、新調したカシオの電子辞書にも小学館のニッポニカという百科事典が入っている。これは引いたことがなかったけれど、グーグルで検索する前にまずこちら、が正しいのかもしれない。さっき必要があって「神近市子」をグーグルで検索したが、その前にこっちを引けば、ちゃんと載っている。

 デスクトップ機のSSD換装、いろいろ思案中。


How to Upgrade Your Laptop with an SSD Drive

 

 

 

いとこ同士~フランス人学者の「ブリコラージュ」のまねはしてはいけないのか否かを巡って

 ある日、後に母から相続することになるアパルトマンのソファーに寝転がっていたところ、「外婚制共同体家族の分布図」と「共産圏の地図」とが突如、重なったのです! まさに啓示でした! 私は何らかの目論見からこの二つを重ねようとしたのではありません。とにかく「二つが一致する」ことを突如、発見したのです。「科学的発見」とは、こういう性質のものです。[…] (91頁)

 

私は、雑多なものを組み合わせて仕事をするブリコラージュ屋です。生涯にわたるブリコラージュの学生ですが、私が歴史を見る際に用いるのは、限られた変数だけで、いずれも学生の頃に学んだ変数です。(105頁)

 

私は、深遠な精神の持ち主ではなく、あくまで、雑多なものを組み合わせて仕事をするブリコラージュ屋です。深遠な精神の場合には、脳髄液を分泌するように、みずから概念を分泌し、自分が用いる概念を深く掘り下げて考えるのでしょう。私はそのタイプではありません(笑)。(122頁)

 

 私にとって、研究とは、ある概念を時間をかけて掘り下げることではありません。たくさんのデータを集め、たくさんの本を読むことです。すると、あるとき突然、啓示のように、二つの事実が重なり合うのです!(125頁) 

  

 

 

 歴史家、人類学者、人口学者、家族人類学者、歴史人口学者…何と紹介されてもよいが「哲学者」ではない、という著者。この本はもちろん英国のEU離脱を受けてのヨーロッパ政治論なので、そうした内容が興味深いのはもちろんだが、上に挙げたような研究者としての自己イメージがぼくなんかにはすごく面白かったりする。

 こんな高名な学者と自分を同列に置くわけにもいかないけれど、ぼくも一つのことを専一につきつめるという勉強はどちらかというと苦手で、たくさん本をあさる過程で、この本のこの部分のあの本のあの部分が重なって見える、という経験を字にする以外、研究というもののやり方を他に知らないのだ。

 東京の一流大学なんかだと、そういうやり方を厳に戒める論文指導がなされていたのかもしれない。でも、ずっと田舎の大学しか知らないから、そういう指導も受けたことがない。受けていれば違ったかもしれないし、あるいはそういう指導を受けた時点で、知的につぶれていた可能性も高い。思いつきを語ることが許されないなら、例によって、黙ってるしかないのだから。

 そういう手法をとっても、本質を衝く議論になり得ていれば、お叱りを受けたりはしないんだろうな、と想像はつく。もとになる読書のレベルが群を抜いて高ければ、きっと説得力も増すのだろう。それは、上に引いたトッド先生の自己省察からわかる。レベルと内実がともなっていれば、それは「思いつき」ではなく真の「啓示」たりうるだろう。ただ、それはそうした発見をとにもかくにも口にしてみて、事後的に「思いつき」にすぎなかったのか、「啓示」だったのかわかるという面もあるのではないか。

 他の人は知らないが、少なくともぼくは80年代に日本でも少し流行った「ブリコラージュ」(あり合わせ仕事?)という語に否定的な意味が宿っているように思ったことはない。ちゃんとしたところでは、「あれは一部のえらいフランス人のやることで、きみたちがまねしてはいけません」と教えられていたのだろうか。

 で、こういう議論と、先日引用したエリアーデの辺境文化論を重ねれば、ぼくなりの北海道へき地の知識社会学みたいなものになるように思うけれど、まあ、思うだけにしておこう。

 気温が上がり、気持ちよかった。半年、ベストを着て過ごしたけれど、今日はシャツの上にジャケットを羽織っただけで外に。ちょっとまだスース―するけど、ここも春だ。


moonriders いとこ同士 【LIVE.2006】

ブローティガン『アメリカの鱒釣り』~HDDをSSDに交換すればこのパソコンはもう少し長く使えるかも

豊崎 わたしが好きなのは「アメリカの鱒釣りテロリスト」。六年生の連中が一年生の背中に、白墨で「アメリカの鱒釣り」って落書きしまくる顛末が描かれているんですけど、〈わたしたちは、この一年坊主が背中にアメリカの鱒釣りと書きつけられたまま立ち去るのを眺めていた。なかなか結構な眺めだった。一年坊主の背中に白墨でアメリカの鱒釣りとあるのは、なかなかぴったりして感じもよかった〉、こういうくだりを読むと、村上春樹高橋源一郎の作家としての出発にあたって、ブローティガンという作家がいかに大きな影響を与えたかがわかりますね。 

 

百年の誤読 海外文学編

百年の誤読 海外文学編

 

  

 

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

 

 

 

Trout Fishing in America

Trout Fishing in America

 

  こんなこともこの本に教えてもらうくらい無知である自分。文庫でもいいし、キンドルでも売っている。宿題が増えるばかりだ。ブローティガンのことは、出戻り大学生だったころに耳にしていないはずはないが、今の今まで読まないままだ。これでアメリカ文学のことを語っていたんだから、自分の無学が怖くなる。

 デスクトップのコンピューターの方が、買ってからまる五年経ち、そろそろ次をどうするか考え始めているのは、先日来書いているとおり。

 少しグーグルで検索をすると、パソコンの寿命とはほぼハードディスクの寿命だから、これを早めに交換することでパソコン自体はもっと長く使える、といったことがわかる。

 実際にぼくの使っているのとほぼ同型のマシンのハードディスクをSSDに取り換える手順を書いたブログなども見つけられる。ある種のソフトを使い、USB経由でSSDにHDDを丸ごとクローンコピーし、パソコン本体を開けてHDDを取り外し、SSDを固定する。あるいは固定せずに宙ぶらりんのままという例も見られる。できなくはなさそうだ。

 ただし、こうした改造のたぐいはすべて自己責任でおこなうのが常識だろう。よほど手馴れていないと、簡単には踏み切れない。SSDを買ってソフトでクローンコピーするところまではできそうだけれど、ドライバーで本体を開け、HDDを取り外し…というのはやったことがない。その作業だけパソコン修理店にやってもらう…としても結構なお金を取られるだろうし、かといって何の保証もないことには変わりはない。

 コーヒー店で英字新聞を読むが、たんなる語学の勉強でひと冬終わってしまったことに愕然とする。本業と思い定めた方面は、手つかずの本の山。難問山積。


CNET How To: Replace your computer's main hard drive with an SSD

 

 

 

ラッダイトとハッキントッシュ

 Last, and perhaps the most important, the Luddites were understood to represent not merely a threat to order, as riotous mobs or revolutionary plotters of the past, but in some way not always articulated, to industrial progress itself. They were rebels of a unique kind, rebels against the future that was being assingned to them by the new political economy then taking hold in Britain, in which it was argued that those controlled capital were able to do almost anything they wished, encouraged and protected by  government and king, without much in the way of laws or ethics or customs to restrain them. The real challenge of the Luddites was not so much the physical one, against the machines and manufacturers, but a moral one, calling into question on grounds of justice and fairness the underlying assumptions of this political economy and the legitimacy of the principles of unrestrained profit and competition and innovation at its heart. Which is why the architects and beneficiaries of the new industrialism knew that it was imperative to subdue that challange, to try to deny and expunge its premises of ancient rights and traditional mores, if the labor force were to be made sufficiently malleable, and the new terms of employment sufficiently fixed, to allow what we now call the Industrial Revolution to triumph unimpeded.

 

Rebels Against The Future: The Luddites And Their War On The Industrial Revolution: Lessons For The Computer Age

Rebels Against The Future: The Luddites And Their War On The Industrial Revolution: Lessons For The Computer Age

 

  高校生のとき、世界史か日本史どっちかをマスターしておくとよいのは何度か書いているけれど、ぼくの場合は、あれほどやりたかった世界史はものにならず、それでも政治経済がものすごく面白くて、そこで産業革命の歴史や、それに対抗して起こったラッダイト運動(機械打ちこわし運動)について知って、すごく興味があったのだった。

 この本は、7,8年前に、当時すでに金欠だったけれど買った。で、書棚に納めて、落ち着いたらぜひ読もう、と思っていた。今、生活がそれほど落ち着いてきたという実感があるわけではないけれど、昨日引用したD.クリスタルの英語史の入門書やルイス・キャロルの伝記とこの本が並んでいるのを見て、何とも興趣をそそられ、手に取っている。

 現代では、ネット通販があるから、お金さえあれば洋書を買うのは簡単だ。問題は読む力があるかどうかで、この本は難しい英語ではないが、ふつうの経済学部の学生が卒論に使おうと思ったら、やはり楽ではないと思う。

 こうして、けっきょく、経済史なりまたは経済学史なりに足を踏み入れるとき、大事なのは語学力ということになる。最初の大学の名物教授が言っていたけれど、経済史の専門家も大半はイギリス経済史を専門としている。そうでなければドイツ。それ以外を専門にする人はすごく少ない、と。これは正確にそうだったのかかどうか、実際には知らないし、今はまた違うかもしれない。でも、語学力の制約で研究対象が決まってくるというのは、実際その通りとしか言いようがない。

 ただ、そう書くと、イギリス史なんかやるのは意気地がないことのように響くのは困る。それはぼくの本意じゃない。歴史をやろうとするとき必要になる語学力は、半端なものではなかろう。また、日本にいて西洋の経済史をやるというのは、その動機や必然性の点でつねに厳しい問いに自分をさらすことになるだろう。日本人がそんなことをやる理由があるのか、と。

 この本はもう20年まえの本だけれど、コンピューター技術の凄まじい発展がすでに展開されつつあったころで、その観点でラッダイト運動を問い直す姿勢が興味深い。このアプローチなら、世界をおおう普遍的な問題としてラッダイトの反テクノロジー・反イノベーションを問うことができる。オートメーションで正業を失い、地域社会が崩壊するというのは、日本人にだって、けっして無縁ではない問題のはずだ。

 これと、発売から時間の経ったマッキントッシュをいろいろ改造したりしながら使っているマニアの姿が妙にかぶるのだが、どんなものか。そういうマック改造機を「ハッキントッシュ」というのか(注記 マックのOSをWindowsマシンにインストールしたものをそう呼ぶらしい)。こっち方面は、ぜんぜんうとくなってしまった。


My Hackintosh at 1 year. Has it been worth it?

 

音象徴と共感覚に関係があることを知って驚いていたことなど

It is a basic principle of language study that sounds don't have a meaning. It doesn't make sense to ask 'What does p mean?' or 'What does e mean?'. On the other hand, we often encounter words where there does seem to be some kind of relationship between the sounds and what is going on in the real world. We link a particular kind of sound with a particular kind of meaning. When this happens, we talk about 'sound symbolism'. When it happens in poetry, it goes under the heading of 'onomatopoiea'.

 

The English Language: A Guided Tour of the Language

The English Language: A Guided Tour of the Language

 

   今日は用事があって、リュックに入れて持って出たけれど、これを読んでつぶすほどの時間もなかったので、帰宅してパラパラ読んでいる。

 「サービス価格 500円」の黄色い値札。いつだか、某大学生協で買ったもの。もう10年くらいまえに、日曜日の喫茶店で読みふけっていたことがある。どんどん読めて、楽しかった。このひとの本は本当に読みやすい。

 サウンド・シンボリズム(音象徴)というのは、二度目に学生になったときに、これを熱心に研究する先生がいて、さんざん講義で聞かされたので、すごく懐かしい。ことばを構成する音そのものは物理的な空気振動に過ぎず、意味は持たないはずなのに、音そのものに意味があると思えるような、そんなことが実際にある。

 そのころ講義でその教授が言っていたのは、日本語をぜんぜん解さない外国人を相手にテストしても、「丸い」「四角い」は、どっちがround でどっちがsquareを意味するか、かなりの確率で彼らは当ててしまう、といったことだった。音そのものに、丸い感じのmやrと四角い感じのsやkといった明らかな差があるため、とそのことはその時わかった。

 何年か前、NHKテレビの爆笑問題の番組で、「共感覚」が取り上げられたことがあった。「共感覚」とは、音に色がついて聞こえたり、文字の中で母音だけが別の色に見えたり、という、視覚と聴覚といった別々の感覚が交錯する複合的な感覚のことだ。そのとき、そうした感覚の持ち主らしい女性が爆笑問題の二人に言っていたのが、「背の低い丸顔の田中さん、背の高いやせた太田さん、それが、耳で音を聞いた感じだと、こっちが太田さんで、こっちが田中さんのように思えてしまう」といったこと。ここにサウンド・シンボリズムの問題が顔をのぞかせていることに軽い驚きを覚えたのだった。

 こういう問題は今でも興味があるし、面白いと思う。ただ、こうした問題意識を文学研究に生かそうとすると、あんまり簡単じゃない。理解を得るのも難しいし、そういうやり方が奨励されてもいない。ノートを書いてパソコンのなかにしまっておくだけ、ということがほとんど。でも、それがいつか活きるときが来るだろう。

 Judy and Maryなんてバンド、ぼくはもうそんなものを熱心に聴く年齢じゃなかったけれど、割と好きで、CDシングルを持っていた。90年代の仄明るい感じを思い出すとき、このバンドのことを思い出す。仕事のない時に、アパートで、一時期、よく聴いていた記憶がある。


JUDY AND MARY『クラシック』

GAOのいたころ~九〇年代はまだ日なたの明るさのあった時代で

 いい天気なのに昼からマンガの原稿を描く。十五日が締め切りなのだ。ここに住みはじめてから、「マンガ家です」と名乗って何人もの人に疑いの眼差しを向けられたが、こうしてちゃんとマンガを描いて収入を得ているのだ。夕方、とりあえず描き上げた原稿を東京の出版社へファクシミリで送る。作品のでき具合を編集者にチェックしてもらうためだ。高級なファクシミリの機械を使っても、マンガ原稿の場合その繊細さまで送ることはできないので、編集者から了解をもらったあと生原稿を郵送してやらねばならない。

「マンガ家は東京に住んでいなければならない」「マンガ家は締め切りを守らない」というのは、マンガ家に対する間違ったイメージにすぎない。

「原稿はとっとと片づけ、だらだら遊ぶ」これが理想のライフスタイルだ。

 

北海道田舎移住日記 (集英社文庫)

北海道田舎移住日記 (集英社文庫)

 

  これも図書館の本。なんかこれ借りてきてすごくよかった。

 自分の場合、どこにも所属を持たないで、あらゆる機会をとらえて、勉強なり研究なりを続ける、というのも、要は浪々の身なので、そんなに楽しい事ばかりではない。心配事もいろいろと尽きない。でも、このはたさんは、北海道のへき地に移住してきて、こんなにのんびり楽しそうにやっている。この気楽さの、なんと明るいこと。もちろん、マンガ家として地歩を築いているからこそそれができるので、ぼくの場合とはまただいぶ意味合いが違うが、いいなあ。

 気付いたら、この文庫は一九九八年に出ている。もとの単行本は九五年。インターネット以前の時間が、はっきり刻印されている。

 九〇年代への懐かしさというのは確実にある。八〇年代があっけなく終わって、それでもまだ日なたの明るさのあった、そんな時代。ぼくもこの家に帰ってすぐのころ、外でぼんやりしながらポータブルラジオを聴いていたらGAOの「サヨナラ」が流れてきて、ああ、あの時代のことを忘れていたな…と、とても懐かしかった。

 過ぎてしまった時間を生き直すことは誰にもできない。それは時間が不可逆的で、人間の生も有限である以上、どうしようもないこと。でも、みんなどうしてるんだろうか。二〇年まえなんてのは、今とりたてて思い出すこともない、中途半端な過去にすぎないのか。

 ちなみに、はたさんが移住してきたのは道北の下川町。あっちも面白そうなところだ。稚内は五,六回行ったはずだけれど、行く用事もなくなってしまった。はじめて宗谷線に乗って稚内に行ったときのことが、昨日のことのようだ。途中、すごい美人がなにもない無人駅で降りていくので、すごく不思議な感じがしたのを憶えている。

 これから半年は冬を忘れていられるから、一か月の暮らしの中に、語学とか何とか、ぜーんぶ忘れる数日を持つといいんだろうな。おにぎりをもってリュック背負って、ずっと歩いてゆくとか。


GAO サヨナラ

 

 

What books should I read to improve my English~むかし買ったままの『薔薇の名前』なども読もう

豊崎 『薔薇の名前』はたしかに厚いし、語り口が現代風じゃなくて読みづらい。話の進み方も、いやがらせかと思うくらいかったるい。けど、根底にあるのは本物の教養です。エーコってトマス・アクィナスの研究者なんですけど、彼の中世哲学の造詣がにじむというより噴出した、これは傑作中の傑作ですね。

 ある意味で非常に凝った構成を持った作品でもありますよね。一九六八年に〈わたし〉は、ある修道院長が一九世紀にフランス語で書写復元した、一四世紀の修道僧アドソの手記を手に入れ、イタリア語に翻訳しようと思い立った。という冒頭に置かれた断り書きが記されたのは一九八〇年となっている。

 

 

百年の誤読 海外文学編

百年の誤読 海外文学編

 

 

 

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

 

 

 

The Name Of The Rose

The Name Of The Rose

 

 

 

Der Name Der Rose

Der Name Der Rose

 

 

Growth and Structure of the English Language (Classic Reprint)

Growth and Structure of the English Language (Classic Reprint)

 

 

 

  厄落とし(ん?)になにか一冊、ドバっと英語小説を読みたい気分のときがたまにあり、たとえばウンベルト・エーコ薔薇の名前』英訳が買ったままとなりの部屋にあったりするのだった。

 二つ目の大学時代のことをいつまでもつい昨日のことのように思っているのは、老化のきざしだったりするのだろう。英米文学の演習の一つが、毎週のゼミはやらず、各人が年度内に四冊の英語小説を読んで試験に答えるという方式で、その四冊というのは年度初めに個々の学生が申告するのだ。当然、申告される作品は各人ばらばらだ。先生はそれを読んでおくというから、今考えると大変な負担だ。

 ぼくは、二年次に、申告はしたがとてもそんな英語での読書はできず、履修放棄した。そのとき『薔薇の名前』をリストに挙げたら、先生が、「これはぼくも興味があるので読んでおきますよ」とおっしゃったのを憶えている。ただ、いっしょにイェスペルセンの英文法の専門書か何かを加えたら、「これはやめときましょうよ」と苦い顔をされたのが、いま思い出しても何ともおかしい。

 結局その単位は、次の年度に取得した。ただ、各人あまりにばらばらなものを申告するので、少しルールが変更されて、最初の一冊は全員ヴォネガットスローターハウス5』を読むこと、他の三冊も20世紀の英米小説に限る、と決められたのだった。それで、『薔薇の名前』はけっきょく読まないままになってしまった。

 しかし、あれは本当に役に立った。横文字の本が怖くなくなった。むろん、横文字の本もいろいろで、この全能感はまた何度も挫折するのだけれど、そのたびあのささやかな成功体験がよみがえって、いまだに横文字の本を読んでいられる。

 今また生まれ故郷にいて思うけれど、ここでは何百キロも離れた札幌にでも行かない限り、外国文学を原書で読むなどという教育をおこなっている学問所はない。意志の弱い子供だった自分には、そのことも不利に働いて、そうしたきっかけがたまたま与えられるまで、外国語の読書が身につかなかった。

 そこで、↓こんな動画を貼っておく。ポーやドイルの原書が難しければ、やさしく書き直したものがいくらでも出ている、それで読んでも少しも悪いことはないという、じつに役立つことが説かれている。英語の先生の一部が「今の若い人はどうせ本なんて読みませんから」と投げやりになるのはわからなくもないが、せめて一部の意欲のある若い人に対して、こういう道は開いておいてあげるべきだと思う。

 毎日おうちにいる身分でも、五月の連休が来ると思うと、気分が解放され、なんとなくほっとする。そのときに読んでもいい、『薔薇の名前』。


What books should I read to improve my English