いとこ同士~フランス人学者の「ブリコラージュ」のまねはしてはいけないのか否かを巡って
ある日、後に母から相続することになるアパルトマンのソファーに寝転がっていたところ、「外婚制共同体家族の分布図」と「共産圏の地図」とが突如、重なったのです! まさに啓示でした! 私は何らかの目論見からこの二つを重ねようとしたのではありません。とにかく「二つが一致する」ことを突如、発見したのです。「科学的発見」とは、こういう性質のものです。[…] (91頁)
私は、雑多なものを組み合わせて仕事をするブリコラージュ屋です。生涯にわたるブリコラージュの学生ですが、私が歴史を見る際に用いるのは、限られた変数だけで、いずれも学生の頃に学んだ変数です。(105頁)
私は、深遠な精神の持ち主ではなく、あくまで、雑多なものを組み合わせて仕事をするブリコラージュ屋です。深遠な精神の場合には、脳髄液を分泌するように、みずから概念を分泌し、自分が用いる概念を深く掘り下げて考えるのでしょう。私はそのタイプではありません(笑)。(122頁)
私にとって、研究とは、ある概念を時間をかけて掘り下げることではありません。たくさんのデータを集め、たくさんの本を読むことです。すると、あるとき突然、啓示のように、二つの事実が重なり合うのです!(125頁)
問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論 (文春新書)
- 作者: エマニュエル・トッド,堀茂樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2016/09/21
- メディア: 新書
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歴史家、人類学者、人口学者、家族人類学者、歴史人口学者…何と紹介されてもよいが「哲学者」ではない、という著者。この本はもちろん英国のEU離脱を受けてのヨーロッパ政治論なので、そうした内容が興味深いのはもちろんだが、上に挙げたような研究者としての自己イメージがぼくなんかにはすごく面白かったりする。
こんな高名な学者と自分を同列に置くわけにもいかないけれど、ぼくも一つのことを専一につきつめるという勉強はどちらかというと苦手で、たくさん本をあさる過程で、この本のこの部分のあの本のあの部分が重なって見える、という経験を字にする以外、研究というもののやり方を他に知らないのだ。
東京の一流大学なんかだと、そういうやり方を厳に戒める論文指導がなされていたのかもしれない。でも、ずっと田舎の大学しか知らないから、そういう指導も受けたことがない。受けていれば違ったかもしれないし、あるいはそういう指導を受けた時点で、知的につぶれていた可能性も高い。思いつきを語ることが許されないなら、例によって、黙ってるしかないのだから。
そういう手法をとっても、本質を衝く議論になり得ていれば、お叱りを受けたりはしないんだろうな、と想像はつく。もとになる読書のレベルが群を抜いて高ければ、きっと説得力も増すのだろう。それは、上に引いたトッド先生の自己省察からわかる。レベルと内実がともなっていれば、それは「思いつき」ではなく真の「啓示」たりうるだろう。ただ、それはそうした発見をとにもかくにも口にしてみて、事後的に「思いつき」にすぎなかったのか、「啓示」だったのかわかるという面もあるのではないか。
他の人は知らないが、少なくともぼくは80年代に日本でも少し流行った「ブリコラージュ」(あり合わせ仕事?)という語に否定的な意味が宿っているように思ったことはない。ちゃんとしたところでは、「あれは一部のえらいフランス人のやることで、きみたちがまねしてはいけません」と教えられていたのだろうか。
で、こういう議論と、先日引用したエリアーデの辺境文化論を重ねれば、ぼくなりの北海道へき地の知識社会学みたいなものになるように思うけれど、まあ、思うだけにしておこう。
気温が上がり、気持ちよかった。半年、ベストを着て過ごしたけれど、今日はシャツの上にジャケットを羽織っただけで外に。ちょっとまだスース―するけど、ここも春だ。