春風のいたずら~マキャベリにおけるフォルトゥナとヴィルトゥ
電車に乗っていますと、競馬新聞を一生懸命読んでいる人をよく見かけますが、競馬でも、あの馬はどろ沼に強いんだとか、騎手がどうだとかを知って、はじめて賭けができます。たくさんの競馬新聞をかかえ込んで比較研究をする、というのは少々オーバーかもしれませんけれども、違った競馬新聞はそれぞれ違った予想を立てている。そういう違った予想を立てられるのは、それ(予見)に必要だと思われるデータと、そのデータの組み合わせ、あるいはウェイティングの違いというものが、そこにあるからでしょう。そこで予想が違う。それぞれ違う予想をのせた新聞を照らし合わせながら、そこに含まれている諸事実を、なんとか自分なりにつかみ整理して賭ける。それでなければ賭けといったって、要するに偶然に身をまかせるに過ぎない。知って知って知り抜いたうえ、やっぱり最後に賭ける、それが賭けであります。[…]
もう古い本だけれど、再読というか、はじめて何が書いてあるのか理解しながら読み返している。
最初に行った大学で受けた社会思想史の講義は、これとは別の本が教科書に指定されていたが、講義自体のネタ本は多分これだろう。マキャベリ『君主論』を論じたところは、強い既視感がある。
フォルトゥナというイタリア語はもちろん英語のfortuneで、運命ということ。ヴィルトゥというのはvirtueで、「徳」という意味だが、ここが肝心だ。マキャベリの言うヴィルトゥ=徳というのは、襲いかかってくるフォルトゥナ=運命を「投げ飛ばし投げ飛ばし操作する、そういう主体の働き」だという。音楽でいうヴィルトゥオーゾ=名手という語にもこの語幹が含まれる。力量、とか、才覚、という語が思い浮かぶ。
このことから思い浮かぶのは、この、人間を外側から規定するフォルトゥナと、それを主体的に操作するヴィルトゥという図式が、社会科学の歴史の中で連綿と繰り返されていることだ。地理学というのはぼくは専門にはやったわけではないけれど、やはり外的要因が人間の生活を規定するとする環境決定論と、人間は外的要因に働きかけてそれを操作できるとする環境可能論という二つの立場があるということは習った気がする。
経営学のほうでも、今はどうか知らないが、外的環境に最適に適応させるかたちで企業経営を考えるコンティンジェンシー理論と、それを修正し、企業の積極的な主体性をより重んずるネオ・コンティンジェンシー理論というのがあると習った(が、むかしのことなので、今の経営学ではどうなっているか)。
そして、それをいうなら、土台=下部構造=経済が、政治、文化、宗教などの上部構造を規定する、というマルクス経済学と、上部構造が経済のあり方を規定することもあるというヴェ―バー社会学という図式が、そのまんまマキャベリのフォルトゥナ=運命とヴィルトゥ=徳の相互関係の変奏なんじゃないのか。上記の引用で「賭ける」という語が用いられているのは、この、人間の積極的な主体性のことを言っている。
最初の母校はもうすっかり縁が切れ、訪ねていっても知っている先生はひとりもいない。ヴィルトゥという語を繰り返し説明していた先生は、とうに退官され、ご存命としてももうかなりのお歳になっていることだろう。あの科目は、名称は変わっても、やはりどなたか若い先生が教えているのか。あれはもっと勉強しておくべきだった。社会のありかたやそれを研究する学問の上っ面はここ2,30年でどんどん変化しているが、それを考えるうえで上記の図式が有効なのは、ぜんぜん変わらないのではないか。
明後日から三月、というこの時期、本州の春先の空気が恋しくなる。こっちはまだ真冬をちょっと過ぎたくらい。入試で海を渡って、本州の街の八百屋さんの店先がとても珍しかったのを憶えている。あと、軒の低いアーケードとか、古本屋とか、輸入レコード店とか、喫茶店とか、はじめて聞くわけじゃないがやはりびっくりさせられた東北弁とか。
あの時点で、入学したらまず語学、という強い自覚を持っていなかったのが、田舎の高校生の哀しいところ。それを挽回するためだけに、いったい何年かかっていることか。今年の桃の節句はちらし寿司が食べられるといいなあ。
はいからさんが通る~優先順位のつけ直しをしないと
...Were it left to me to decide whether we should have a government without newspapers or newspapers without a government, I should not hesitate a moment to prefer the latter. But I should mean that every man should receive those papers and be capable of reading them.
CNNを観ない日が数日続くことがある。というか、観たいのは録画しておいて、あとからゆっくり観たりということが多い。テレビはなにしろ老母の唯一の娯楽なので、ふだんはどうしてもそれを取り上げる気にはならない。で、観たい番組というのは、日曜の夜の(現地は朝)ジェイク・タパーの『ステイト・オブ・ザ・ユニオン』だったり、土曜の『スマーコニッシュ・ショー(アメリカ法制評論)』だったり。
でこれは先々週のスマーコニッシュの番組の最後に紹介されていたジェファーソンの言葉。新聞のない政府と政府のない新聞、どちらか選べと言われたら迷わず後者、ただし、万人がそれを受け取れて、読めるということが必須、と、これはよく引用される。(注記:governmentは政府とだけ考えず、「国を治める」ことそのものであることをおさえておく)
で、ホワイトハウスはニューヨーク・タイムズとCNNを記者会見場から締め出したそうで、録画で今日観た昨日の『スマーコニッシュ』では、締め出されたのはCNNじゃなく大多数の国民だ、とCNNも負けてはいない。
スマーコニッシュは禿げ頭にメガネ、ひげ面のアンカーだが、その風貌が、ぼくの大学勤めの時代の上司(大学でもそういう権力関係はある)に似ていたりして、なんとなく懐かしい気がするが、それにしてもCNNやPBSを観ていて感心するのは、アンカーの脇に座ってあらゆるニュースにコメントするといった日本風の「コメンテーター」のいない点で、日本のあれは日本の文化だからそれでいいのだが、ニュースごとにスカイプなどで政治家や大学教授などの専門家が出てきてアンカーとするどいやり取りをするのは、無難な結論に着地することなく、論点が鮮明になって有り難い。
そしてそのやりとりが、時間が来ると、たいていきちんと終わる。あともう一点、としつこく言い募るコメンテーターは絶無とは言わないが、時たま見るだけだ。
そして、こういう時に使うのだなと思ったのがThank you for having me.(=呼んでくれてありがとう)という言い方。多くのコメンテーターが使う。ぼくもある場所で、一回だけ使ったことがある。やり取りの前に使うのが普通かもしれないが、終わりに使ってもいいみたいで、きりっとまとまってその場がいい感じになる。
『ジャパン・タイムズ』日曜版は、一週遅れで大あわてで読んだ。まだ読み切れない。本を読んでいると、こちらに手が回らなくなる。
次はこれを読まなくては、というのが和・露・英文でどっさりあって、時間がぜんぜん足りない。図書館で抜いてきた以下の本がすさまじく面白い。
それからこれも。大学二年のとき、日本経済史のゼミにいた先輩が、ぼくがてっきりそのゼミに行くものと思い込んで、いろいろ教えてくれたことなど思い出す(本人も大いにその気があった)。
それから、これが読みたいと思って探すが出てこない。持っているのはわかっているが、出てこないというのが一番困る。まさに書影どおりのが、あるはずなんだが。
かと思うと、こんな本を買ったまま忘れていた。
A Mouthful of Air: Language, Languages...Especially English
- 作者: Anthony Burgess
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で、ピンチョンなんか数冊買って持っているのはあれだ、本気でそのうち読むつもりだったのだ。
- 作者: Thomas Pynchon
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ロシア語があとまわしになってゆくのはそれはそれでまずく、以下のものもロシア語で読みたいと思って、原書をこの部屋に持ってきてある。
チェーホフ全集〈12〉シベリアの旅 サハリン島 (ちくま文庫)
- 作者: アントン・パーヴロヴィチチェーホフ,松下裕
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/07/01
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- 作者: チェーホフ,Anton Pavlovich Chekhov,原卓也
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2009/07
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それからこれも、読みつぶし用に買った原書が出てきた。結局何がしたいのか、優先順位をつけ直さないと、カオスが増すばかりだ、と気づく。二月がまだ二日も残っている。何とかしよう。
Eleanor Rigby~書棚の奥からJ・アップダイクまで出てきて
やけに春めいて、陽光がまぶしく、気づいたら札幌の大学に滞在していた。そこでは古い友人たちが大学院生時代そのままにアルバイトをし、その一環なのか、ポーランド語の講読会などをやっている。ぼくはいつもと違い、事務室の一角にデスクを用意してもらうが、事務員だと思っていた人らがみな研究者でもあるらしくて驚く。壁の書棚には、ジョージ・トルストイ『血はよみがえる』という小説の戦後すぐのボロボロの訳書が並んでいるが、こんな小説は今まできいたことがなかった。ふと、コンピューター言語の重要性に行きあたり、その専門家の研究室を訪ねる。C言語、あれは労働統計ですよ、という話。ああ、それなら自分にもこなせそうです、と答えるが、こんな先生ここに居たっけ? C言語が労働統計って…
ここで目が覚めた。
夢を見て寝ていた。午前6時。まだ二月。あんなうららかな春は、まだひと月半も先だ。
夢は忘れてしまうが、たまに枕元のノートにメモっておくことがある。それでどうしようというわけでもないが、場所が決まって大学だったり、見たこともない本が置いてあったり、そんな夢を見ることが何と多いこと。
夢と現実は、微妙なところで混じり合うこともあって、昨日通り過ぎた電気屋で、ずいぶん昔ウェス・モンゴメリーのLPを買ったことがある気がしたが、むろん今ではLPなど置いているはずはないし、確かめるためだけに店に入って何も買わずに出るのもいやだから入らなかった。これなどは、いつかの時点で、きっと夢の一部に加工されて出てくるのではと思う。ちなみに上記の夢の中でコンピューターのプログラミングのことが出てきたのは、昨年秋の学界で、JAVAを駆使してネット上の教材を作っている先生の発表を聞いたことが残っているのだろう。
今さらのように外国語を読む日々だが、ぜんぜん本来やるべきことと関係ない洋書を、語学のトレーニングと称して読みふけっているのもいいんだか悪いんだか。とにかく、千ページくらい読めば渇きが癒えるだろうなどと考えつつ、アップダイクの『S.』などというのも書棚の奥から出てきて、ええい目障りだから読んじまおうかどうしようかというところ。ロシア語の大きな本棚はとうとう開かないまま(ルームランナーを置いていて、それをどけないとガラス戸を開けられない)、二月の末を迎えつつある。英語週刊誌はたまってしまった。
午後一時からの文化放送『ミスDJリクエストパレード』も、ひょっとしたら夢かもしれない。千倉真理さんは、少しおばさんぽくなっているが驚くほど昔と変わらないし、サザン・オールスターズ「ミス・ブランニュー・デイ」、佐野元春「Sugar Time」、南野陽子「はいからさんが通る」、森高千里「わたしがおばさんになっても」などがガンガン流れる。いま西暦何年ですか?
Wes Montgomery / Eleanor Rigby
Canned Music~その先輩は気さくで有能な人だったが
日本の英語学習書には「その発音はダメ」、「ネイティブにはこう聞こえます」という風にあおるものもよく見かけますよね。発音に自信のない人にとってはグサッと刺さる言葉ですが、そういうものは、あまり気にする必要はないでしょう。
福岡伸一教授の書いている(語っている?)ページから。これはその通りだ。
ぼくの会社員時代の話だからもうずいぶん昔だが、スポーツ万能で顧客にもよく好かれる先輩がいて、ぼくもずいぶんお世話になった。その先輩がときどきうんざりするような紋切り型を言うことがあった。なんでも、先輩の高校時代、アメリカから留学生が来たんだそうだ。そしてふつうに他の生徒にまじって授業を受けていた。英語の授業もだ。そして、陰ではその先輩たちにこんなことを言っていたそうだ。「日本の教科書の英語は古文です。今のアメリカではあんな喋り方はしません」。
だから、日本の英語教育は全然役に立たないのさ、といったこと。東京の有名大を出た、ハンサムで気さくでスポーツ万能で有能な先輩がそう言うのだ。女子社員はみな感心してうなずいていた。ぼくは反論したいのをこらえながらきいていたが、どう反論したいのかというのは、その当時は言語化できなかったし、今でも完全には言葉にできない。
上の福岡教授の一節を読んだとき、ふとその時のことがよみがえるのを感じた。
くわしくは書かないが、たまさか自分がその程度の知見を、他の者と比べてほんの少し進んだ差分として有しているからといって、それを元手に同胞を感心させ、あるいはどやしつけ、委縮させるというのは、やはりあまりに俗悪なふるまいではないのか。
むろんその先輩は、無難なきまり文句としてそうしたことを言っただけだろう。ぼくがその後もずっとそのことを憶えているとは、向こうでは夢にも思っちゃいないだろう。
モギケンが、多読が一番の英語学習法だ、というとき、その程度のことはとっくに織り込み済みだ。著作権の切れた『種の起源』だってネットで読める、どんどん読むべし、とモギケンが言うとき、それが「実践的な」「会話」にすぐに応用可能だ、などということは含意されていない。何しろ19世紀の英語だ。そういうものも含めて、たくさんの書かれたテクストを読むことが英語力の根っこを太くする、といったことが説かれているのだ。古めかしい表現を会話で使って失笑が起こる、とか訂正される、といったことは、何語を学んでいても、よくあることだ。そんなことをいちいち恐れていては外国語なんて勉強できない。場数を踏んで、一つ一つ学んでいくしかない。
これから『ジャパン・タイムズ』日曜版。一週遅れになっちまう。現代の英語は、ネットもあるし、いくらでもピックアップできる。
" Canned Music " Dan Hicks and The Hot Licks
On the origin of species (English Edition)
- 作者: Charles Darwin
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The Origin of Species: 150th Anniversary Edition
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Darwin: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)
- 作者: Jonathan Howard
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Just The Two of Us~サローヤン読了
"Any work that has to be done around here, men can do. Girls belong in homes, taking care of men, that's all."
- 作者: William Saroyan
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主人公の少年のセリフ。内容はさておいて、この言い回しを拾っておく。
以前も書いたとおり、belong toという句は高校で習うが、belong inという言い回しにもじつによく出会う。こっちは学校で習った覚えがまるでないので、近年の俗語なのだろうくらいに思っていたが、1942年のこの小説にちゃんと出て来る。
改めてリーダーズを引くと、「〈ある[いる]べきところに〉ある、いる;あるべきである、ふさわしい;,《特定の環境に》なじんでいる」という語釈があり、用例として、
These cups belong on the shelf.
これらの茶碗の置き場は棚の上だ。
とか、
A dictionery belongs in every home.
辞書はどの家庭にもあってしかるべきものだ。
という文が載っているのだった。とすると、上の引用の一節は「おんなはうちにいるのがふさわしいんだ」となるわけだ。ぼくが言ってるんじゃないよ。
もうひとつ、例のみんなが受けるあの有名な英語のテストではas of「いついつの時点で」という表現がよく出てきて、これも学校では習ったことがなかった。,二度目の学部生時代と院生のころ、教職の関係で英文の授業もずいぶん受けたが、そのころ出遭っていればはっきり覚えているはず。これもぼくは近頃の英語はこんな言い方もするのか、ぐらいに思っていたのだが、これもサローヤンの中にちゃんと出てくる。
I don't think I've said a prayer since I was thirteen years old. But I'm starting all over again, as of right now - and this is it."
三日かかったが、さっき読み終え、二、三十分、涙目だった。カリフォルニアの美しい街を舞台に、こんな胸に迫る結末。これをも「コメデイ」とよべるのだから、なるほど「コメディ」は「喜劇」とだけ訳して済ませてはいられない。以下の邦訳は未見だけれど、『人間喜劇』と訳さず『ヒューマン・コメデイ』としてあるのは、そんな理由もあるのだろうか。
- 作者: ウイリアムサローヤン,William Saroyan,関汀子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1993/08
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アメリカの政治の話は最近食傷気味で、ここ数日CNNもPBSも観てないが、こんな一節があるので拾っておく。孤児院育ちのトビーという兵士が、おれは自分がなに人=なに系なのかも知らない、と告白するくだり。
”[…]Some people say I'm Spanish and French, and some people say I'm Italian and Greek, and some people say I'm English and Irish. Almost everybody gives me a different nationality."
"You're an American." Marcus said.
なに系だろうと、お前はアメリカ人、という、このAmericanの一語のふところの広さ。で、読み終えて、作者がつけた序文に戻って、ああそうか、そうなんだ、と理解する。アルメニア移民の父親に捧げられている本なのだ。父は英語は充分に読み書きできず、作者自身はアルメニア語では書けないので、
As you cannot read and enjoy English as well as you read and enjoy Armenian, and as I cannot read or write Armenian at all, we can only hope for a good translator.
と、翻訳の重要性という今日的な問題が真正面から打ち出されている。
先月のスタインベック『ハツカネズミと人間』、ファヂェーエフ『壊滅』、今月のコールドウェル『タバコ・ロード』と続けて読んできて、これだものどこの国にも本の虫がいっぱいいるはずだよなあ、と思う。文学の力とか、そういういい方すると文学部出身者の我田引水めくのでしないでおくけど、いやほんと。
例によって、二つ目の大学に通っていたころの古本屋で買った本で、300円の表示。それにしてもこれらの本を売ったのは、どんな人だったのだろう。
二十年来の宿題を片付けつつあるが、いろんな意味で、今これを読んでおいて、本当によかった。希望を持とう。
瞳いっぱいの涙~冬の終わりの北海道でサローヤンを読む
"It was right here that she stood. I'll never see her again, most likely, but even if I do, I'll never see her again as she was when I saw her this afternoon."
- 作者: William Saroyan
- 出版社/メーカー: Dell
- 発売日: 1966/08/15
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- 作者: ウィリアムサロイヤン,William Saroyan,小島信夫
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図書館に本を返しに行き、新たに5冊借りる。じきに除籍されるらしい本の棚が文学書の宝庫で、除籍されないうちに借りたい本がいっぱいだ。
サローヤンは今日は30ページくらい。このあともうちょいいけるが、今日中には読み終わらないだろう。
サローヤンのことは、この20年ほどで二回見聞した。一度は、アメリカ文学の専門家でも何でもないある人が、好きな作家としてふいにサローヤンの名を出した時。このとき、上の本が自宅の書棚にあることを思って、そういや読んでないやと思った。
もう一回は、以下の本の中で。
きょうは八月三十一日で、ぼくが朝いちばんにするのはレイク・シティの図書館にゆきサローヤンの本を探すことだ。アルメニア人のウィリアム。ぼくはThe William Saroyan Readerという本を探しあて、適当に開いて、短編を読みはじめる。
このあと'The Filipino and the Drunkard'という掌編が紹介されるが、これは読んでみたい。白人の酔っ払いが船の上でフィリピン人青年に"I'm a real American. I don't want you standing up here among white people"としつこく因縁をつけて事件になる話。このときも、一冊だけ持っているサローヤンThe Human Comedy、まずあれを読まねば、と思った。
で、昨日から読んでいる。やさしい英語でなおかつ読みごたえが濃厚にある。
ところで、もう東京へ行く機会はないが、札幌へは今年も数回出かけるだろうな、という程度の北海道のへき地暮らしだけれど、書店の店頭で洋書を購うなどということも、もうなくなってしまった。紀伊國屋が札幌駅のとなりに新装開店した時は、洋書売り場が広くてそこそこ感銘を受けたが、数年で店舗の模様替えがあり、その売り場は実用書売り場となり、洋書は別のコーナーにうつされて冊数もがくんと減ってしまった。数回のぞいたが、意外な品ぞろえはもうなくて、昨年は一度も行かなかった。
昨年行ったのはジュンク堂というところで、やはり洋書売り場があるらしいと聞いて初めて行ったのだけれど、まあこんなもんかという程度で、置いてくれているだけまし、品ぞろえははなから期待すべきでなかった。
そもそも、ネット通販でたいていの洋書は手に入ってしまうので、リアル店舗に洋書がないのを嘆く実用上の理由はないはずなのだが、洋書店の不振を嘆き、往時をなつかしむ声はネット上に多く見られるし、自分も、知らず知らずそれに同調している。
もし東京へ行く機会があるとすれば、紀伊國屋新宿南店の洋書売り場というところへいっぺん行きたいが、行く機会もないだろうし、数万円分の洋書のバカ買いというのも、むかしの話だ。
昨日確かめたら自分のキンドルにはほぼゼロ円~数百円でダウンロードした洋書が二百冊以上あるので、それで我慢しよう。買ったまま読んでない洋古書のたぐいもまだまだあるから、退屈してる暇はない。
毎冬、年が明けたら、まず洋書。語学の専門家として大学にいたころは、内実がともなわず、何をやっても手につかず、むなしく、苦しかった。その自分の内実を今さらのように少しずつ、空威張りと無縁の、中身のある読書で充たしてゆく。やさしいものでも構わぬ。読んでいるときは至福感というのか、心の中で「充電中」のランプが光っているのを感ずる。春までに千ページ行ければそのランプが緑になる。次は案外↓これかもしれない。
The Voyages of Dr. Dolittle (English Edition)
- 作者: Hugh Lofting
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花咲く乙女よ穴を掘れ~サローヤンを一日で読めるかと思ったが
[…]外国語の本を読むときの永遠の問題は「コツコツ辞書を引きながら読むべきか、それとも辞書をなるべく引かずに流れをつかむよう心がけるべきか」である。ひとまずの個人的な答えは「両方やってみた方がいい」。読んでみて、この本はわりとやさしい、と思ったら後者、ちょっと大変、と思ったら前者、というふうに分けるのがいいと思う。
拾っておく。柴田元幸さんのエッセイから。この一節があったから、この本は手に取った甲斐があった。
ぼくは「辞書をなるべく引かずに流れをつかむ」といったことは、よほど語彙がやさしく、筋を読み切れる本じゃないとやらないようにしているが(ほとんどないが)、これは人の気質にもよるので、それができる人はどんどんやったらいい。
今朝は未明に目覚めて、ずっとサローヤンを読んでいた。やさしいからどんどん読めてしまうが、それでも辞書は引く。pianolaなどという単語は確かに前後から意味が推測できるのだが、それでも「自動ピアノ」であることを確認した。お前、足を引きずっているが、どうしたんだ、という箇所では、ちょっとligamentをひねったんです、と出てくるが、これも引く。「じん帯」。なるほどね。linimentでもあてときますよ、というのは「リニメント剤、塗布剤、擦薬」。
外国語の本が一日100ページ読めた、という日が、年に数回ある。つまり、こんなに長く勉強してきて、年に数回しかない。今日はそんな日。きっかり100頁読む。それにしてもThe Human Comedyというのは、ダンテのDivine Comedy=神聖喜劇=神曲をもじったものなんだろう。大西巨人の大長編『神聖喜劇』は、書棚に並べてある。一巻だけは読んで、残りはこれも宿題だ。そういやあ、『失われた時を求めて』を読むのは(とうぜん邦訳ね)、いつになるんだろうか。研究室の先輩にあたる人は、骨折で入院していた時に読破した、と教えてくれた。
ともあれ、ダンテの『神曲』の、comedyのこの語釈がむかしから謎で、リーダーズを引くと「喜劇」のほかに「人生劇《悲喜の両面から人生の真相を描いた作品》」とあり、オックスフォードを引くが、電子辞書版は簡略過ぎてそこまで載ってない。オンラインの英英のほうだと、それらしい意味が載ってるが、どうも「人生劇」とまで訳せるような用例がない。やはり、イタリア語を引かないとその機微は分からないのか。
今日は強風で、体感温度が寒かった。それでも、日差しはもう真冬じゃないなと感ずる。秋にベストを買って、着やすいのでもう一着買い、ひと冬、それを着て過ごしたことになるが、セーターより楽。これにネクタイ、ジャケットに帽子で、いつもの職業不詳スタイル。
昨日、よせばいいのに迷彩色の小さなリュックをリサイクル店で買ってしまう。千円もしなかったので、つい買っちまった。包装せず、そのままタグを切ってもらい、タブレット端末の入ったケースを放り込んで使い始めた。図書館に本を返しに行くときなんか、このリュックでいいんじゃないか。
20年以上前に古書店で300円で買ったサローヤン、実は一日で読めないかと思ったのだが、さすがに無理そうだ。明日か明後日読み終わる。ここ数年、冬は、簡単なものでいいから洋書というか原書というかをげっぷが出るほど読みたくてたまらない。本は逃げていかない。あせらず。
ムーンライダースのこの曲は、ぼくは知らなかった。会社勤めをしていた時、先輩が酒を飲むたびにこの曲を歌い、「お前が教えてくれたんじゃないかこの曲」と言うのだったが、そんな覚えはないので、よく似た誰かとまちがえていたのだろう。
- 作者: ウィリアムサロイヤン,William Saroyan,小島信夫
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- 作者: William Saroyan
- 出版社/メーカー: Dell
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A Study Guide for William Saroyan's "The Human Comedy" (Novels for Students)
- 作者: Cengage Learning Gale
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失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)
- 作者: マルセルプルースト,Marcel Proust,井上究一郎
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moonriders 花咲く乙女よ穴を掘れ 【LIVE.1992】