瞳いっぱいの涙~冬の終わりの北海道でサローヤンを読む
"It was right here that she stood. I'll never see her again, most likely, but even if I do, I'll never see her again as she was when I saw her this afternoon."
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図書館に本を返しに行き、新たに5冊借りる。じきに除籍されるらしい本の棚が文学書の宝庫で、除籍されないうちに借りたい本がいっぱいだ。
サローヤンは今日は30ページくらい。このあともうちょいいけるが、今日中には読み終わらないだろう。
サローヤンのことは、この20年ほどで二回見聞した。一度は、アメリカ文学の専門家でも何でもないある人が、好きな作家としてふいにサローヤンの名を出した時。このとき、上の本が自宅の書棚にあることを思って、そういや読んでないやと思った。
もう一回は、以下の本の中で。
きょうは八月三十一日で、ぼくが朝いちばんにするのはレイク・シティの図書館にゆきサローヤンの本を探すことだ。アルメニア人のウィリアム。ぼくはThe William Saroyan Readerという本を探しあて、適当に開いて、短編を読みはじめる。
このあと'The Filipino and the Drunkard'という掌編が紹介されるが、これは読んでみたい。白人の酔っ払いが船の上でフィリピン人青年に"I'm a real American. I don't want you standing up here among white people"としつこく因縁をつけて事件になる話。このときも、一冊だけ持っているサローヤンThe Human Comedy、まずあれを読まねば、と思った。
で、昨日から読んでいる。やさしい英語でなおかつ読みごたえが濃厚にある。
ところで、もう東京へ行く機会はないが、札幌へは今年も数回出かけるだろうな、という程度の北海道のへき地暮らしだけれど、書店の店頭で洋書を購うなどということも、もうなくなってしまった。紀伊國屋が札幌駅のとなりに新装開店した時は、洋書売り場が広くてそこそこ感銘を受けたが、数年で店舗の模様替えがあり、その売り場は実用書売り場となり、洋書は別のコーナーにうつされて冊数もがくんと減ってしまった。数回のぞいたが、意外な品ぞろえはもうなくて、昨年は一度も行かなかった。
昨年行ったのはジュンク堂というところで、やはり洋書売り場があるらしいと聞いて初めて行ったのだけれど、まあこんなもんかという程度で、置いてくれているだけまし、品ぞろえははなから期待すべきでなかった。
そもそも、ネット通販でたいていの洋書は手に入ってしまうので、リアル店舗に洋書がないのを嘆く実用上の理由はないはずなのだが、洋書店の不振を嘆き、往時をなつかしむ声はネット上に多く見られるし、自分も、知らず知らずそれに同調している。
もし東京へ行く機会があるとすれば、紀伊國屋新宿南店の洋書売り場というところへいっぺん行きたいが、行く機会もないだろうし、数万円分の洋書のバカ買いというのも、むかしの話だ。
昨日確かめたら自分のキンドルにはほぼゼロ円~数百円でダウンロードした洋書が二百冊以上あるので、それで我慢しよう。買ったまま読んでない洋古書のたぐいもまだまだあるから、退屈してる暇はない。
毎冬、年が明けたら、まず洋書。語学の専門家として大学にいたころは、内実がともなわず、何をやっても手につかず、むなしく、苦しかった。その自分の内実を今さらのように少しずつ、空威張りと無縁の、中身のある読書で充たしてゆく。やさしいものでも構わぬ。読んでいるときは至福感というのか、心の中で「充電中」のランプが光っているのを感ずる。春までに千ページ行ければそのランプが緑になる。次は案外↓これかもしれない。
The Voyages of Dr. Dolittle (English Edition)
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