俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ジュ・テーム~持っているのについ買ってしまった内田義彦『社会認識の歩み』

 マルクスが生まれたのは、後進国ドイツですね。後進国ドイツ、後進国ドイツということを、マルクスはよく言っています。しかし後進国ドイツの産という運命は逆手にも取れる。単なる宿命ではない。たとえば彼はヘーゲルを読みとって自分のものにしておりますが、そのヘーゲル後進国の生まれだからこそ、スミスやルソーの説いたところを理論化しえた。マルクス自身もそうです。ドイツの生まれという逃れようのない運命を逆手にとってヘーゲルや古典経済学を読みかえた。後進国にもかかわらずというよりも、むしろ後進国だからこそというような読みもいれて後進国出身のマルクスを見ないと、歴史のうえにマルクスを立たせることはできないし、歴史を見たマルクスを見ることもできないかと思います。われわれ自身、歴史をそう読まねばならぬ運命にまきこまれて生きているわけですね。

 

社会認識の歩み (岩波新書)

社会認識の歩み (岩波新書)

 

  これは持っているけど、古本でまた買っちまった。持っているが読んではいないような気がして。部分的に読んでるわ。

 でも、ざっと眺めて、改めて読んでおこうかなあ、と思うのは、社会思想史なんか好きだったのに、そっち方面のゼミに行くこともなく、何とも半端にしか知らないまま来てしまったからで、もう取返しはつかないとはいえ、露文の院に行く時も、思想をテーマにすることを選択できなくもなかったのだ。入ってみたらそっち系統の講読がちゃんとあって、すごく面白かったから。

 で、内田義彦氏が大のチェーホフ好きだったのは、亡くなったときにどなたかが書いていた追悼文で知ったのだったか。後進国知識人論としてのロシア文学研究などと、ぼくなんかがかつて酒を食らいながらくだをまいていたのは、水田洋氏がそうしたことに触れていたからだというのははっきりしている。で、今読むと、内田氏もマルクスにかこつけて後進国としてのドイツといったことを書いているのが、やけに新鮮に映ったりもするのだ。

 後進国からは学ぶものがない、後進国の言語など習得するに値しない、というのは実に皮相なものの見方だ。それは勝ち馬にだけ乗りたい、ハズレは引きたくないという安逸である以上に、ヨーロッパの辺境であったイギリスで市民革命が起き、産業革命が起き、アングロ=サクソン文明が世界を支配し、英語が世界語になり…という歴史の動態を、十分に長い歴史的視野で見ていない。英語だって古代からずっと世界語だったわけじゃない。ゲルマン的出自を持ちながらラテン的語彙を取り込み、聖書を自国語訳し…という「追いつき追い越せ」の時代が長かったのは、ちょっと英語史をかじればわかることだ。今後もどうなるかわからないのは、英語至上主義の権化のように思われている人ですら以下のように言っていることからわかる。

ヨーロッパ中で使われていた中世ラテン語が短期間に力を失ったことを顧みると、現在、国際語の地位を得ている英語がある日突如頓死することがないとはいえないだろう。

 

講談・英語の歴史 (PHP新書)

講談・英語の歴史 (PHP新書)

 

 なんにせよ、八〇年代にちゃんと勉強しなかったツケなのはわかっている。〈社会系〉で行われる「内田」的講義と、〈人文系〉で行われる「渡部」的講義。ぼくの中ではその二つが全くのなまかじりで、必ずしも相互を否定しきらぬまま、ずっと併走してきた。むろんそれはそれでいいのだろうが、必要以上にそこに引っかかリ続けないためにも、後進国知識人論、という視点からいっぺん整理しておきたいものだ(がさしあたりどうすればいいのか)。

 ところで、次の英書は、冊数稼ぎのためにもサローヤンあたりでどうか。今日はもう疲れたので休もう。

The Human Comedy

The Human Comedy

 
人間喜劇 (ベスト版 文学のおくりもの)

人間喜劇 (ベスト版 文学のおくりもの)

 
ヒューマン・コメディ (ちくま文庫)

ヒューマン・コメディ (ちくま文庫)

 

 


ジュ・テーム 木之内みどり.wmv

キラキラ星あげる~crustaceanは「エビカニ類」、impasseは「袋小路」

 上智の英文科のいくつかのクラスでノーマン・ルイスのこの本を使ったところ、おもしろい結果が出た。私のクラスにいた学生が出身県の留学生として留学した。その県から四、五人留学させてもらったらしいが、向こうの大学に入った途端、ヴォキャブラリー・テストがあり、いっしょに行った人たちはみんな落ちた。上智より入試が難しい大学から行った人も落ちた。そして、留学期間の一年間、正規の大学の授業でなく語学校に入れられた。ところが、上智の彼だけはヴォキャブラリー・ビルディングをやっていたから、英文科に入れてもらって単位をいくつか取って帰ってきた。現在、彼は六大学の一つで教授を務めている。

 

講談・英語の歴史 (PHP新書)

講談・英語の歴史 (PHP新書)

 

 

 

Word Power Made Easy: The Complete Handbook for Building a Superior Vocabulary

Word Power Made Easy: The Complete Handbook for Building a Superior Vocabulary

 

 

 

Word Power Made Easy: The Complete Handbook for Building a Superior Vocabulary

Word Power Made Easy: The Complete Handbook for Building a Superior Vocabulary

 

  めらめらと燃えてきますなあ、こういうのを読むと。

 本を読むのが目的で語学をやっているから、本を読むことを優先したいが、外国語の本を長く読み続けるためにも、語彙の増強はやったほうがいいとおもいつつ、もう二月の下旬へと突入する。

 今日は完全に一週遅れで『ジャパン・タイムズ』日曜版の先週の号をやっつけていたが、半日潰して八ページくらいかなあ。知らない単語は今に至るもやはり多い。英米人が書いている記事など読んでいると、crustacean エビ、カニなどの甲殻類、といった語が普通に出てくるので、この人らは教育のいつかの段階で、こういう語を読み書きする段階というのがあり、その知識を読者と共有しているのを前提で記事の中でも使っているのだと感じられる。

 こういう語がおびたたしくあるのだから、たとえ国内の難しい大学の入試に受かる者らでも、英語圏の大学教育を受ける者の中に位置づけられてしまうと、英語力はそんなに高位に行くはずがない。

 もう十数年前、まだ大学のせんせ―だったころ、たまの土曜に、以下の本をかばんに入れて、コーヒー屋さんに行った。そして二時間ぐらいはそれを読むつもりだった。しかし、いきなりimpasseなどという未知の語が出てきて、意気阻喪し、一五分くらいで店を出てしまった。袋小路、という意味。

 当時ぼくの置かれた状況自体が、ひとつのimpasseだったことに思い当たる。そこから這い出すためにこそ、語彙の増強は必要だったりするのだ。

 

Zizek's Politics

Zizek's Politics

 

  この本は研究費で買った本で、返しちまった、というのはいつか書いたかもしれない。今なら読めるかもと思いつつ、これを購う数千円が出せない。

 寒い日曜、しかし日差しは強い。次の暖気はいつか。昨日、ラジオで流れていたこれ。コメットさんがお嫁さんに来るなら、つらい宮仕えも耐えられたかも、というのは錯覚だろうな。ともあれ、一歩ずつ冬が終わってゆく


キラキラ星あげる / 大場久美子

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ポケベルが鳴らなくて~柴田元幸氏が初めて読んだ原書はオーウェル

 最初に通読したのはジョージ・オーウェル1984(邦訳『1984年』)です。大学3年になったと同時に休学して、イギリスを旅行してヒッチハイクしていたとき、全然車が来なくてほかにすることがなくて道ばたでずっと本を読むしかないっていう状況があって、それで気がついたら読み終わっていたわけです。

 

大学生になったら洋書を読もう―楽しみながら英語力アップ!

大学生になったら洋書を読もう―楽しみながら英語力アップ!

 

  今日届く。書きこみのある古本だが、内容を知りたいだけだったのでじゅうぶん。まだ全部目を通していないが、柴田元幸さんが以上のようなことを語っているのはおっとなる。そして、そのときの気持ちはよく覚えておらず、シャンパンを買ってきて祝うということもしなかったが、

でも1冊読み終えたという自信や満足感って、客観的には別に価値はないんだけど、個人的には日々そう得られるものではないので(笑)、あるといいですよね。

 としているところなんか、ぼくなんかは、自分を肯定してもらっているようでとてもうれしくなった。「個人的には日々そう得られるものではない」という部分がミソで、プロの英文学者にとっても原書を読み切ることはそのつど意味のあることであり、それくらい当然でしょ、といった虚勢がまったくなくて、安心するわあ。この大先生にしてそうなんだ。

 で、氏の談話をすべてひいているわけにもいくまいけれども、洋書入門に際して、最初はこれから入るといいといった定番というものはない、と語っているところも面白い。

[…]若いうちは見当はずれの無謀なことを色々やって失敗に終わることも、何らかの役に立っているんじゃないかと思うんですよね。なんでもマニュアル的な情報を得て、ちゃっちゃっちゃと達成していく人生はどこか貧しいんじゃないかと(笑)。

 でありながら、あえて言えばオースターとイシグロ、という点も面白くて、オースターは書庫にあるはずだが、いつだが探しに行ったら見つからなかったんだわ。

 ぼくは、露文の大学院に行き、ロシア語教師をやった人間だ。だが、これは人にもよるだろうけど、大学院を出て駆け出しの講師になったくらいのころは、自分の専門は〇〇語です、などとエラソーに言えるほど確固としたものはまだないんじゃないだろうか。ぼくは赴任した先の最初のアパートでジェイ・マキナニーを読んでいたときのことをはっきりおぼえているが、べつに特別なことをしているとはまったく思わなかった。

 

Bright Lights, Big City

Bright Lights, Big City

 

 

 実は英語を読むのが(英語を読むのも)楽しみという、〇〇語専門家はたくさんいると思われる。日本では一般に、学校でまず習う外国語は英語なのだから、おかしなことでも何でもない、ぼくごときが口幅ったくなくそう言えるほど、英語で本を読むことが一般化してほしい。

 語学徒生活はちょっと中断、と言いつつ、もう原書講読に専念してもいいのかもしれず、迷いつつ息抜き。文化放送の『ミスDJリクエストパレード』、ぼくと同年輩の方々がたくさん聴いておられるようで。


「ポケベルが鳴らなくて」国武万里

 

 

 

 

ヴァージン・ブルー~エマニュエル・トッドのEU本や松本哉のマヌケ本を読みかけのまま過ぎる暖かな金曜

 フランスの「反米」は、ドイツの「反米」に比べれば、冗談のたぐいにすぎません。私見によればドイツ人は、第二次世界大戦における米国の勝利を正当なものと見做していません。真の勝利は地上戦における勝利であり、その勝利はロシアのものであったということを、ナチス・ドイツと熾烈に戦った連合国側兵士の九〇%がロシア人だったということを、ドイツ人は知っているからです。

 ソ連ブロック瓦解後にアメリカがロシアに対してとった苛烈な政策は、戦略的にとてつもない過ちでした。アメリカは冷戦の勝利に酔いしれていて、自らがドイツを不安定な、危なっかしい状態へと促していることに気づかなかったのです。アメリカは、ナチス・ドイツに対する真の勝者であったロシアに屈辱を味わわせました。それはある意味で、第二次大戦がなかったかのような仕打ちでした。もはや勝者も敗者もないという歴史無視でした。その結果、ドイツは自国の過去から解放されました。つまり、反ロシア政策をとったことで、米国はドイツに対するコントロール力を失ったのです。

 

  メモ代わりに。来週図書館へ返すが、五冊借りたうち、この本だけざっと読んどけばいいだろう。

 この指摘はするどいが、当否を判断する力はぼくにはない(たとえば、太平洋戦争とのバランスなどはどうなるのか)。フランスはドイツにつき従うのではなく、イギリスと組んでドイツをけん制すべきだったのに、ということらしいが、あとの祭り(といった筋が見えるが、もっと読まないと何とも言えず)。ドイツひとり勝ちをみすみす手助けしてきたフランス、という図式がいつもどおり繰り返されるのはよくわかった。

 そうそうもう一冊、松本哉の本も、ざっと読んでおきたい気がする。社会運動家プラス起業家というか、そういうとらえ方ができなくもない人だが、なにせキーワードが「マヌケ」だからなあ。人を自由にする「ふざけた場所」の作り方を説いている。

通訳はやめよう

 海外からもたくさん人が遊びに来るとなれば、どうしても言葉の問題が出てくる。と、なってくると「通訳できる人助けて~」となるんだけど、そこは心配無用。我々は所詮マヌケ同士。別に学術会議を開くわけでも高度なビジネスの話をするわけでもない。中高生の頃に学んだうろ覚えのイカサマ英単語や和製英語、カタカナ英語を繋ぎ合わせればなんとかなる。そもそも言語なんて人のコミュニケーションの中で自然と出来ていくもの。英語だって別にイギリスやアメリカの英語が正しいってこともない。アジア人がわけのわからない英語を話し続ければそれが自然と「アジア英語」という正統な英語になるはずだ。どうも我々はペリー来航以来、引け目を感じてしまいがちだけど大丈夫!開き直ったカタカナの恐ろしさを知らしめてやれ!!

 

  主張の当否はどうでもよくて、このひとの文章の勢いというのが昔から好きで、『クイック・ジャパン』誌の「貧乏人新聞」(だっけか)、よく読んでいた。ぼくも多少語学に身を入れたマヌケに過ぎないから、通訳はあんまりしたくない。日がな一日、マヌケな場所でだぼらを吹くために語学をやっているという側面も、きっとある。ちょっと引用しているだけでも、どんどん気が楽になる本だ。

 

 歯科に行く。銀歯をかぶせに。待合室で待ちながら、ドクターがあちこちで受けた研修の修了証(英文、和文半々くらい)が飾ってあるのを見る。読むともなしに読んでいて、歯科で「カリエス」というのは「虫歯」のことなのだ、と知る。秋からロシア語の単語集を潰していて、「虫歯」も、いまさらながらのように知ったのだった。ちょっと考えればわかることだが、ロシア語でもやはり「カリエスの歯」という言い方なのだ。

 上記の本を借りたのと別の、地元公民館で、地方紙のたぐいをざっと読む。これがいい社会勉強にもなる。冬の公民館は文化の香りがする、と言ったら笑われてしまうかもしれないが、静かに本が並び、新聞が読めるスペースがあるなんて、本当にありがたい。知人が地方紙にコラムなど書いているのを読んで、コピーしてもらい、持ち帰る。

 老母が帯状疱疹で、ここのところバタバタしているが、とにかく薬を服用して安静にしているしかない。家事のすべてをぼくだけではできないが、昼のそばの残りをさっと炒めたりして我が家風のおかずにし、夕食。レタス、トマトなど野菜を洗って切ったのは老母だ。

 コーヒー豆を買ってきたが、最近、うちではほとんど熱いコーヒーを飲んでいないことに気づく。一時期、マキネッタ(イタリア式のエスプレッソ・メーカーね)でさかんにエスプレッソをたてては飲んでいたが、面倒になったのか、飽きちゃったのか、水出しコーヒーのたぐいばっか。どなたかによれば、アイスコーヒーというのは俗物の極致が飲むものだそうだが、あれはどなたの本だったかなあ。

 暖気が入って、いよいよ真冬が過ぎようとしている当地。日中、小雨が降っていて、この程度の暖かさが続けばなあと思うものの、夕方、雨は雪に変わり、また大雪山のむこう側は暴風雪の警報が出ている。風で窓がガタガタいっている。みんな元気だろうか、などと思う二月中旬。


SALLY バージンブルー

 

 

 

 

さよなら好き~アダム・スミスの講義を聴くためにグラスゴウに送られたモスクワ大学の学生らがいたらしいこと

  ついにこの講義の核心的な部分が、一七五九年に『道徳的感情の諸理論』として公刊された。(戦前わが国ではこれを『道徳情操論』と訳していたが、いまでは『道徳感情論』と訳されるのが普通である。)いうまでもなくスミスの第一の主著である。道徳という名まえをもっているけれども、この書物の内容は、今日の言葉でいえば、狭い意味での倫理学ではなくて社会哲学原理というべきものである。いずれ後にその中身をもう少し詳しく説明するつもりである。ここではただ、この名著によって、学者としてのスミスの地位が定まり、その名声が全ヨーロッパにひろがったことをもう一度述べておきたい。グラスゴウの市民の中には、スミスの講義だけはききたいといって集まる聴講生が跡をたたず、設立後まもないモスクワ大学は二人の留学生を送ったほどである。この書物はスミスの生存中六版を重ね、彼は押しも押されもせぬヨーロッパ一流の学者の地位にまでのし上がっていったのだが、しかし『道徳感情論』の出版以後スミスの講義の中心は、しだいに法学や経済学のほうへ移っていった。こうして近代的な社会科学者としてのスミスの顔が、しだいに私たちの前に明らかとなるのである。 […]

 

アダム・スミス (岩波新書 青版 674)

アダム・スミス (岩波新書 青版 674)

 
アダム・スミス (1968年) (岩波新書)

アダム・スミス (1968年) (岩波新書)

 

  冬の終わり「のような」一日。アスファルトが見えて、乾いている。明日はもっと暖かい。むろん、そのあとまた真冬日が来るが、もう厳冬期は抜けたも同然だ。

 ろくに勉強しないまま二月が半分を過ぎた。勉強、というのは十月から続けている語学の総復習で、なし崩しに原書講読に移行しつつ、単語帳なんかそのままになってしまっている。それにまた取りかかろうかなと思いつつ、過ぎていった一日。

 スミスの『道徳感情論』の原書は、この家のどこかにある。これはいくら説明してもわかってはもらえないが、ロシア語教師でありながらそっち方面は完全に方向を見失っていたころ、原点に戻って英語でアダム・スミスなんか読めば、自信や落ち着きをとりもどせるのではと考えていた。けっきょく当時は、何語であれ原書を読む時間そのものがないも同然で、膨大な「積ん読」の一部となってそのままだ(「つんどく」で「積読」と変換されるが、かつて八十年代ごろには「積ん読」と、「ん」が入っていたような気がする)。

 その積ん読の一角を、どこまで切り崩せるか。語学の総復習も、それにかかわってくる。何語であれ、やさしくともいい、原語で書かれた本を読み切る、という訓練は、たいそう効く。年が明けて、英書を三冊読み、並べてみると、どれも薄い本なので自慢にも何にもならないが、とにかく今まで読めなかったものをげんにこうして読んでいるのだから、よしとしよう。伊能忠敬のことを思えば、学問するのに遅すぎるということはない。

 それにしても、モスクワ大学からスミスのもとに送られた留学生がいたというのは、何かにくわしい記録が残っていたりするのだろうか。これを読んではじめて知った。こういうことをもっと知りたいなあ。著者は注も何もつけていないが、何を読めば書いてあるのかなあ。

 (追記:これか

Десницкий, Семён Ефимович — Википедия

University of Glasgow - International students - Your country - Russia

 月曜に来た『ジャパン・タイムズ』日曜版、ようやくこれから封を切る。それと、以下の本注文してみた。英語での読書の勧めは、自分に関してはもういいのだけれど、英語教育界/英語産業ではどう扱われているのか、やはり興味はあるので。

 

大学生になったら洋書を読もう―楽しみながら英語力アップ!

大学生になったら洋書を読もう―楽しみながら英語力アップ!

 

 


さよなら好き 浜田朱里

ルナルナ TIKI TIKI~コールドウェル『タバコ・ロード』における土地所有の概念

"You're going to make me leave?"

"I done started doing it. I already told you to get off my land."

"It don't belong to you. It's Captain John's land. He owns it."

"It's the old Lester place. Captain John ain't got no more right to it than nobody else. Them rich people up there in Augusta come down here and take everythig a man's got, but they can't take the land away from me. By God and by Jesus, my daddy owned it, and his daddy before him, and I ain't going to get off it while I'm alive. But durned if I can't run you off it - now git!"

 

Tobacco Road

Tobacco Road

 

 昨日のエントリーで「百年以上前の小説」と書いたのは誤りで、1932年の作だ。別の小説と混同していたので間違えた。

 さきほど読了。二日で読めるかと思ったが、正味三日かかった。これはもっと早く読んでおくべきだった。いろんな意味でそう思う。

 で、先日読んだスタインベックの『ハツカネズミと人間』も同じ古本屋で同時期に買ったはずで、まだ取りかからずにいる『怒りの葡萄』もたぶんそこで買ったので、どうやら元の持ち主は同じひとりの人らしいと考えつつある。読むのに支障があるほどではないが若干書き込みがあり、それが、同じ赤鉛筆なのだ。こういう、アメリカ農村小説に興味を持っていた学生さんか誰かだろうか。こうした選び方をしたのは、そういう講義を受けたとか、教授かだれかの影響なのかもしれないが、思い当たる先生は母校にはいなかったから、よそから流れてきた本だったのか。

 いや、二年前にやっつけたコナン・ドイル数冊も、去年の冬読んだモームも、やはり同じ色鉛筆で難語にアンダーラインがあった。同じ古本屋で買って、ずっと書棚に並べてあったもの。だから、ごく当たり前に洋書を読むのが好きな誰かだったのかもしれない。どれも、そんなに難しい小説じゃないし。

 上に引いた一節は、土地制度史に一時期興味を持っていた自分としてはとても面白い。農民が、地主の土地を耕しながら、心情的にはその土地を自分のものと強烈に感ずるというのは、どこかで読んだことがある。いろんな本で土地の所有形態の記述に出会うたび、抜き書きをつくって年代別に整理し、ノートを作ったことがあって、あのノートはどこへ行ったかなあ。墾田永年私財法とヨーロッパ的な土地制度を比べたりして、自分なりに面白かったが、一度、日本史の大先生にうっかりその話をしたところ、ひどく怒らせてしまったことがあり、それでそっち方面の興味は封印してしまったのだった。

 で、『タバコ・ロード』、これは季節としては二月から三月にかけての南部ジョージア州の話。ぼくは、本は買っておけば、いつか読まれて知的に発火する可能性を秘めているといつも考えているけれど、この小説は、文字通り、燃え上がるような大団円。これにガツンとやられるくらいだから、自分もまだまだ甘ちゃんだ。

 NHK-BSで月曜にやってるABCの『ジス・ウィーク』、ようやく録画を見る。毎日大きなニュースが報じられ、数日前のニュースなんて見なくてもいいようなものだが、ジョージ・ステファノポリスが大統領補佐官にバンバンするどい質問をぶつける。受けて立つミラーという補佐官がまた言語明晰に反論する。ヒートアップするが、罵り合いにはならない。すごく見ごたえがあった。

  明日くらいまでは暖気が入って、冬の終わりらしい気温だが、そのあとまた寒いらしい。この季節は、中原めいこさんなんか聴きたくなるのは、なぜだろう。


ルナルナ・TIKI TIKI COVER カイマナふぁみりーさん

 

 

 

 

下宿屋~different thanという言い回しは古くからあるのか

"That don't hurt it none,"Jeeter said. "Don't pay no attention to it, Bessie. Just leave it be, and you'll never know it was any different than it was when you got it brand new."

 

 

Tobacco Road

Tobacco Road

 

  南部の、というか下層の農民の話す英語。一文のなかに否定辞を二度用いたり、三人称単数現在なのにdon'tが用いられたり、という中に、例のdifferent thanが出てくる。もちろん学校で習う正しい語法ではdifferent fromとなるが、different thanという言い回しを耳にすることは実に多い。で、最近の傾向なのかなくらいに思っていたのだけれど、こんな古い小説の中にそれが見いだせるので、拾っておく。

 こんな暮らしも嫌だなあ、と思いつつ読んでいるけれど、なんというか貧困と無知に魅入られたようにやせた土地を離れることのできない農夫ジーターは、どこか他人事でないリアリティで迫ってくる。なんとも痛々しい小説だ。何人もいた子供らがほとんど家を出て便りすらよこさず、二人残った子供のうちの、年端のいかぬ少年デュードは、自称宣教師の中年女ベッシ―に強引に結婚を迫られ、とうとうそうなってしまう。そのさいベッシ―はこの少年の歓心を買うため新車のフォードを買い与えるのだが、デュードはその新車を、乱暴な運転で、一日でボロボロにしてしまう。その車を見て、ジーターが口にするのが上の一節。ぶつけたといっても、まあこれくらいならたいしたことない、という、何とも大ざっぱなセリフ。

 いろいろ面白いのは、一八歳にすら達せぬ少年との結婚の許可を強引に役所に出させたり、運転免許に関する記述が一切なかったり、という、アメリカの田舎の法的側面だ。これはどこまで事実に即しているかわからないが、現実に百年八十年以上前のアメリカの田舎では(この小説は1932年の作品)、交通法規はおろか、民法までが交渉次第でどうにでもなるほど、法の執行が融通無碍だったのだろうか。むかし北海道のへき地で(全国どこでもそうだろうが)、司法書士行政書士、税理士、社会保険労務士をすべて兼務するかのような〈代書屋〉が繁盛していたことなどをどこか思わせる面がある。

 二月も半分過ぎた。週末、また寒さがやってくるらしいが、今日なんかは曇りながらわりと冬の終わりらしいおだやかな一日だった。

 もう行くことはないのに、最初に通った大学のある街のことを、毎日思い出している。ストリートビューで、なつかしい下宿街が見られるけれど、ぼくのいたのは通りの一番奥だから、そこまでグーグルカーが入って行かないのが残念。


下宿屋(森田公一とトップギャラン)cover ねちょ