お手やわらかに
初夏に書く真冬の思い出になってしまいますが…
もうあれは何年前でしょう。書きあげられるかどうか不安だった修士論文というものを書き上げて提出し、審査を終え、その上の課程に行くめども立った頃。2月だったと思います。
日曜でした。寮をふらりと出て、北へ向かって歩きました。札幌、広い街でしたけど、歩くのは苦ではなかったです。歩いて歩いて、地下鉄南北線の北のはずれ、麻生駅に来ました。で、一軒の古本屋に入りました。あの店、まだあるのかな。狭くて、誰かが書棚の前にじっとしていると通れない、そんな店でしたが。そのとき、有線放送のスピーカーから流れてきたのがこの曲。
私の負けよ お手やわらかに
今夜は逃げないわ
悪魔のような あなたの腕に
抱かれるつもりなの
Ah 少々くやしい気もするけど
あなたには とうとう落とされた
一年も二年もふったのに
こうしてつかまった
お手やわらかに お手やわらかに
泥棒よ あなたは
これがずっと頭の中で鳴っていました。誰の何という曲かもわからないまま、何年も過ぎました。やがて、気がつくと机の上のパソコンはインターネットというものにつながっています。そこで、ある日、この歌詞を検索してみたんですね。たちどころにわかりました。
夏木マリにこんな曲があるのを知りませんでした。ただ、僕があのとき聴いたのは明らかに夏木マリさんではありません。さらに検索し、中嶋美智代によるカバーであることを知りました。矢も盾もたまらずCDを注文。今鳴っているのは、あの冬偶然聴いたのと同じ、中嶋美智代ヴァージョンです。
しつこく交際を迫る男に身体を許す、という、現実にはありえないシチュエーションを歌ったこの曲。夏木マリという稀代のキャラクターがあってこそ成立した曲でしょう。そのきわどい設定の曲が、中嶋ヴァージョンだと、実にかわいいポップ曲に変身しています。夏木マリさんのほうは体臭がにおいたつような生々しいお色気ソングですが、中嶋ヴァージョンでは、悪女ぶっているギャルの告白になっています。新川博さんというかたの編曲が、原編曲を活かしながらもまったく別物になっていて、それもグッド。イントロのこの音、シンセサイザーでしょうかスティール・パンでしょうか。
先の見えない学生生活、その先にちょっと光が見えた、そんな時期だからこんなこともよく憶えているんでしょう。季節は真冬でしたが、あのときのゆるやかな解放感もまた、なかなか忘れられません。