俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ロック・ミュージックとサイエンス・フィクション

文学研究者の集まりなどにたまに出て行くことがありますが、そこで学者さんたちと話をしていると、いつの間にか自分が、音楽と文学をごっちゃにして話をしているのに気づくことがあります。もっとはっきりいえばロックとSFを。そして怪訝そうな顔をされて、あ、また失敗した、と思うのです。

昨年、川又千秋『幻詩狩り』(東京創元社[創元SF文庫]、2007年)を読んで、あまりの素晴らしさにあっけに取られました。シュルレアリスムの未発表原稿をめぐる幻想譚。読むと人は狂死するという…。こういうのを言語SFというらしいですな。なーるほど。で、大変恐れ多いことに、僕はいわゆるSFのマニアックな読者だと誤認されることがあるのですが、それはまったくの誤解なのです。僕がSFという文学の形態に最も強く感化されたのはずいぶん遠い昔、子供の頃のことです。当時、田舎の中学生だった僕らは、先輩がお年玉をはたいて購入したガリ版の印刷機を使って、幼稚なSF同人誌を作って遊んでいました。「幼稚な」というのは今振り返って言えることで、当時の僕らは十分に真剣だったのだと思います。で、昨年、川又千秋さんのものを読んで、とても懐かしい感覚がよみがえりました。リアリズムだと思って読んでいると、いつの間にか幻想の領域に持っていかれてしまっているこの感じ。これだな、ずっと忘れていたのは。とても懐かしい気がしました。で、この人のものをもっと読みたい、と思って川又千秋『夢の言葉・言葉の夢』(奇想天外社、1981年)というのを取り寄せてみました。

これは評論集。「まえがき」にはこうあります。「本書『夢の言葉・言葉の夢』は、一九七三年七月から七四年十二月まで、一七回にわたってSFマガジンに連載されたものです」。

いや、もっと若いときに読むべきでした。これを読むとはっきりわかるのです。僕らが中学生の頃熱中していたSFごっこ、同人誌ごっこは、70年代の初めの東京の大学生のお兄さんたちの稚拙な模倣だということが。僕らが技術家庭科室を占拠してやった<シンポジウム>で先輩が語ったことが、すべてSFマガジンの受け売りだったということが。そして、東京のSFマニアの大学生たちも、SFとロック・ミュージックを同列に語っていたのだ、ということが。ジャニス・ジョップリンリック・デリンジャーカルメン・マキ&OZ、頭脳警察、ジュニア・ウエルズ、吉田拓郎といった固有名詞が、サイエンス・フィクションを論ずる批評の中に何の違和感もなく並んでいるのを見るのは、ちょっとした感慨です。さらには、ブルガーコフ、オレーシャ、グリーンといったソヴェート作家たちが、70年代のSF青年たちによってどのような期待をもって迎えられたのか、ということも、おぼろげながら知ることが出来るのです。

僕は、70年代の東京の大学生のお兄さんたちがかつて通った道を、今になってとぼとぼと歩いているのかもしれません。