透明少女~大学教師は〈私〉の顔を見せるのをつつしむべきということについて
〈私〉的なものとは、具体的なイメージをあげるならば、「趣味」や「雑談」のようなものであろう。たとえば、中学や高校の教師が「雑談」と称して、自分の家族や日常生活のことをたれ流して、生徒たちの気を惹こうとしているのが、ぼくは昔から嫌いだった。あるいは、大学の教師が、学生に配布される「自己紹介」のたぐいに、自分の学問領域とはまったく関係のない「趣味」のことなどを書いて紙面を汚し、学生たちから「親しみやすい」という評判を得ようと腐心していることにも、ぼくは嫌悪感を禁じ得ない。
以下省略するが、大学教師は知識人たるべきで、学生には〈公〉の顔を向けるべき、というのは、今になって腑に落ちるところがある。
地方大学などに勤務すると、この〈公〉と〈私〉、そして著者が前向きな意味を込めて使う〈個〉のけじめが非常に難しい。難しいけれど、公私混同はぜひとも避けるべきで、もっぱら通訳者としてコミュニティからお呼びがかかることが多少不満でも、呼ばれたからには通訳者の役割に徹するべきだった。愚痴を書くのはいやだから書かないが、それで通訳者としての評価が低ければ、発奮して猛勉強するしかない。
勤務先では〈私〉の顔はなるべく出さない、というのは、大学のせんせーの世間知としてはわりと行き渡っているようでもあって、冷徹なアドミニストレーターとしての顔しか向けない人が、音楽の趣味では分かり合えそうな人だったり、ということは、ずっとあとから知ったりしたのだった。しかも、今考えると、そういう人らはあえて余計な人とは分かり合わないのだ、というふしもあったようで、世間はそういうところだというのが今になってわかったりもする。
語学の授業のついでに、ふと余計なコメントを漏らすということの多かったぼくは、日本のロックバンドについていろいろ知っていると思われていたが、それこそが、上の個所で言う〈私〉の顔のいやらしさだろう。これはウェーバーが講壇禁欲ということを説いたのと同じことで、教師は事実判断の伝達に徹すべきで、価値判断=何がいいか悪いかについては関与してはならないということ。
しかし、大学一年の政治学で習ったのは、事実判断と価値判断の分離はそう簡単なことではなく、価値判断はどうしても入ってきてしまう、ということだった。これは程度問題でもあって、講義全体が政治宣伝やはたまた大道芸もどきというのでは困るが、たまの学園祭で先生がたがギターを弾いてカントリーなんか唄っているのは、そんなにいやな気もしなかった。が、もうずいぶん昔の話だ。
昨夜から雨、けさがたの夢のなかでも道を歩けないほどの土砂降りで、世界の終わりが来たように空が異様に暗い。そんな中、理系の先生のためのレクチャーを頼まれて、パワポをいじるのだが、刻々時間が迫ってもパワポはいっこうに完成せず、プロジェクターをオンにすると、なぜか成人向け動画が映ってしまう、というところで目が覚める。起きたらやっぱり雨だった。
向井秀徳が椎名林檎に「あなた美人やね」とヨイショするTVを観た記憶があるが、あれはなんという番組だったか。
よせばいいのに~北沢書店で買った立川健二さんの本をパラパラ見る雨の夜
ところで、本書の版元である現代書館は、「書籍」を大事に長持ちさせることでは、わが国の出版界でも屈指の存在であろう。ぼくは、自分としては全精力を傾けた小著が、この良心的な出版社によって読者の手に渡されることを心から倖せに思うものである。その一方で、この書物が「書籍」としての生命を終え、「古書籍」や「図書」として残されたときに、これを再発見し、読み通してくださる未来の読者の方々にも、ぼくは握手の手を差し出したいと思う。
十年くらい前の神保町。久々に寄った北沢書店が以前とだいぶ様子が違い、文学の洋書なんかがなかったんだっけ。洋古書はあったのか。新刊は、児童向け洋書のみとか、そんな品ぞろえになっていたのか。記憶があいまいだけれど、文学や思想の洋書を眺めて場合によっては買い込んで来ようという目算が外れて、これだけ買ってきたのだった。
で、ソシュールから出発して独自の言語論をやっていたはずの著者が、アイルランドのことなんか書いていたりして、少し奇異にも思ったが、面白いなあ、と読んだのだった。
この本(かひょっとしたら別の本)に、夏休みを利用してアイルランドに滞在し、政治哲学書を読んでいる、といったことが書かれていたような記憶があって、それを探してパラパラ見ていたのだが、その個所が見つからない。山口昌男さん的本の馬鹿買いほどではないが、ちょっと、洋書読みにはうらやましく思える、そんな個所。こんな優雅な大学教師もいるのか、とため息が出たが、うらやましさゆえにそんなふうに読めただけだろうか。ちゃんと読めばこの方も、この本の時点で大学を辞めておられた。
そのかわり、上のような個所が目に入ってきて、ああ、いいことを書くものだなあ、と思った。本を出すって、そういうことなんだろうな。
北海道はようやく桜が咲いている。昨日、地元の桜の名所、見に行ったが、三分咲きだった。で、今日も、時間が空いたので見に行ってみた。六分咲きと案内されていたが、ほぼ満開に見えた。
老母が、今度の母の日はカーネーションはいらないからケーキというので、カーネーションとケーキを買ってこよう。
雨が降り、晩はまだ寒いが、北海道はいまがもう夏、と思った方がいい。当地は寒くなるのも早いから、今のうちから夏を心がけて日常を組み立てればいいだろう。靴はなじんできて履きやすい。
ダイジェスト本もまたその抜粋のしかたが資料となりうることについて
[…]本屋も数件あって、ほしい本も何冊か手にとってみたのだが、まだ前途に船旅をひかえているということが、荷物をふやすことをためらわせ、ここではクールトンの『中世の精神』を買っただけで、ずらりとならんでいた『生きた思想』双書は一冊も買わなかった。この双書は、反ファシズム思想闘争のために編集された、近代民主主義の代表的思想家からの抜粋であって、マルクスをトロツキー、ニイチェをハインリヒ・マン、ペインをドス・パソスというように、編集と解説を担当していた。これがずらりとならんでいるのに、一冊も買わなかったことについて、ぼくは自己批判の必要を感じている。たしかに、荷物がふえるからというのは、強力で客観的な理由であった。しかし、それよりまえに、ぼくの気持ちのなかには、抜粋であってフル・テクストでないことへの、軽蔑があったことはまちがいない 。抜粋本が、抜粋のしかたによって一定の解釈をあらわし、そういうものとして思想史の材料になること、また双書の編集も同様であること、もっと一般化すれば、思想の原内容だけでなくその社会的存在形態が、そうであることに、おもい及ばなかったのである。
研究対象の次数の問題、あと一点だけ。
ここの個所もすごく何度も読み返してぼく自身の考え方に入り込んでいる部分だ。文学をやろうと思想をやろうと、テクストとしてどの版を使うかということがうるさく言われることは周知のとおりだ。厳密な本文校訂をほどこした権威ある版というのを使わないと、それだけでモグリのようにケチがつくこともある。
これは、原著者が書いたオリジナルになるべく近いものを読むべきだという意味合いで当然のことなのではあるが、それとは別に、その思想がどのように解釈され、伝達されてきたか、ということを研究対象とするばあいは、ダイジェスト版もまた役に立つ。
最新の研究成果から見れば原著者の意図を離れて偏った伝達のされ方をしていたり、思想というものの「社会的存在形態」は、時代とともに変化する。
で、偏った、誤った伝え方をしている本は、時代が変われば廃棄されどこでも手に入らなくなり、そのために、その時代、マルクスなりニーチェなりがどのようなものとして受容されていたのかが、あとの時代から見るとまったくわからなくなる。そのためにこそ、ここで言われているようないささか中途半端なダイジェスト版が思想史の材料として役に立つ。
ところが、こうした議論を受け容れようとしない人々というのもまた一方では存在するらしい。思想なり学説なりは常にアップデートされた状態に保てていればそれでよく、なまじ古い知識をどこかに保存しておくのは不経済であり危険でさえある、といった考え方だ。
いつだか、ロシア経済の専門家と話していたとこのこと。社会主義だったころは、ソ連経済の動態をうまく説明できるモデルがないかどうか、経済学者のあいだでも模索が続けられていたという。しかし、ソ連崩壊後、社会主義経済でなくなって以降は、それらの探求は完全に無価値になった、という話。「しかし、そうした理論の変遷をどこかに書き留めておくこともまた必要なのではないか」とぼくが問うと、「…いやあ、もうそれは意味がないですねえ」とのことだったように思う。
ここがぼくにはわからないところで、だとすれば今でも、経済思想史の研究者が経済史の研究者にひけ目を感ずる、という状態は、どこかで続いているのだろうか。
一度行きたいと思っていた高円寺の某古本屋では、もう洋書を置いていないんだとかで、自分が行ったこともない書店の話なのに、なぜかとても残念だ。
札幌のいつも行く大学で、恒久的なデスクの置き場所をもらう夢を見る。だから、夢ね。
あきらめ節~研究対象の次数とライヴ至上主義
職業としての学問を考えるようになったとき、その学問とは近代ヨーロッパ思想史であり、副次的に、当時の言葉では社会科学方法論、いま自分では思想の社会学とよんでいるものであった。社会科学方法論というのは、岩波文庫にウェーバーの「客観性」論が、『社会科学方法論』という題で訳されていたことがよくあらわしているように、科学と価値判断の問題、イデオロギーの問題であり、そのかぎりで史的唯物論をふくんでいた。あとで思想の社会学といいかえるようになったのは、一般的には方法論の不毛を避けて、具体的な思想史の領域で問題を考えるためであったが、その背後にはマルクス主義(当時の)イデオロギー論への不満があった。それは、制度と思想をイデオロギー=上部構造のなかに、一括して投げこんで、制度と思想のあいだの整序には関心をもたなかった。かんたんにいえば、下部構造至上主義、経済至上主義であった。経済思想史の研究者が、経済史の研究者にたいして、ひけ目を感じていた時代である。
研究対象の次数の問題について、もう一カ所、拾っておく。
経済史と経済学史≒経済思想史は、たまに混同している人もいるが、この区別はつくと思う。そして、経済学史について、「それって経済学学じゃないの?」といったことがたまに言われる。それはこの著者の青年時代に限らず、現代でもそうではないか。言語学についても、誰それさんのやっていることは言語学ではなく言語思想史≒言語学学でしょ? と言われることがあったりもする。
経済学と似ていて決定的に違うものとして社会学があるけれど、どなたかがやはり、誰それさんのやっていることは社会学説史で、飲み屋街をふらついたことのない人の社会学など社会学ではない、と書いておられたのを読んだ記憶がある。
これは、一面ではよくわかる話だ。とくに理系の大学などでは、フィールドなりラボなりで実験や調査をするのが科学者で、科学史家というのはとても特殊な位置づけだろう。そもそも科学史の専任の先生を置かず、教授たちが持ち回りやリレー講義で科学史なり○○学史をこなしているところが多いのではないか。
現実を研究対象にするのが個々の科学/学問だとすれば、その学説・思想の変遷を追うことはなるほど二次的な研究だ。さらにその思想の日本への移入を研究するとなると、さらに次数がひとつ繰り下がる。この点をどう考えるか。
研究対象の次数が繰り下がるたびにレベルが低くなり、不純なことをやっている気持ちになる人もいるのだろうな、と思う。ぼくは、この問題は自分なりにさんざん悩みぬいたので、文科の学をやっている以上、この種の次数の繰り下がりが起こることは避けられないと考えるようになった。そのことで経済思想史を経済史より低く見るということもないし、言語思想史が言語学=言語の科学的調査研究に比べ二義的な意義しか持たないと考えることもあまりない。経済のありようの変遷を研究する経済史も必要である一方、経済をみる視点がどう変遷してきたかを研究することも劣らず重要ではないか。その専門の研究者は当然いてよいと思う。
ただ、ぼくはたまたまこの本を繰り返し読んでいたから、そういう風に考えることができるようになっただけであるかもしれない。ある先生はロシアのジャズグループの日本公演をサポートする仕事を通じて、徹底したライヴ至上主義の立場に立つようになった。いったんなまの醍醐味を経験してしまうと、活字情報がさぞ色あせて見えたことだろう。これはこれでよくわかる話ではある。おととし読んだ本では、マヤコフスキーも肉声の朗読がよかったので、印刷された作品はその抜け殻に過ぎない、と書かれていた気がする。
ただ、ウエスト・コースト・ジャズはアメリカ西海岸ではなく東京〇〇区のジャズ喫茶で生れた、という、受容に重きを置いた論じ方も、ときにはライヴ第一主義に劣らず説得力があったりする。で、ああそうか、これはベンヤミンを引いて相倉久人さんが言っていたことにも通ずる、と思ったりもするのだった。
コーヒーを飲みに出た。ゴールデンウィーク中の真夏のような暑さは去り、ぐっと気温が低かったが、それでも寒いとまでは感じなかった。アマゾンから来た靴はちょうどよい。かたちが考えていたのと違うが、履き心地はなかなかで、返品せず正解だった。
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添田唖蝉坊 ・あきらめ節 / 土取利行(弾き唄い) Akirame-bushi / Toshi Tsuchitori
平日が戻ってくる~昭和史やフロイトで終わるGW
水野 さきほど近代兵器として、飛行機、潜水艦、タンクなどが挙がりましたが、これらを動かすには石炭よりも石油のほうが効率がいい。特に飛行機は、石炭では重くて飛べません。つまり石油を手に入れないと戦争ができない時代になったのです。第二次大戦でソ連が戦えたのも、当時、世界の半分を産出したバクー油田を押さえていたからです。
半藤 しかし、日本軍は石油への切り替えが遅いんですね。昭和十年代になってもまだ大艦巨砲主義です。
水野 石油は石炭と違って、産出するところは限られています。しかも、メジャーと呼ばれる国際企業が牛耳っていて、そのメジャーがあるのはイギリス、アメリカ、オランダだけ。つまり、持てる国と持たざる国とにはっきり分かれてしまった。すると今度は、石油の獲得をめぐる戦争が始まってしまうのです。
連休が終わる。といっても、ふだんからおうちにいる自分にとっては毎日が連休のようでもあって関係ないのだけれど、半分残念なような、半分ほっとするような、おかしな気分だ。
連休中に靴が届いて、思っていたのと少し違うが、夏の間履きつぶしていい靴が一足ないのは不都合なので、これをはいてこの夏は過ごそう。で、今日も、コーヒーを飲みに散歩に行こうと思いつつ、半額で売ってたアイスコーヒーを冷蔵庫に入れてあったので、それを飲んでいるうち一日が終わってしまった。
また平日が戻ってくる。閑散としたカフェでアイスコーヒーを飲んだり、図書館で本を選んだり、そういう日々がまた巡ってくる。ラジオも、NHK-FMの『今日は一日○○三昧』もいいのだけれど、平日のふつうの番組がやっぱり好きだ。未明から起きて勉強のようなしごとのようなことをして、そのあと仮眠しながらラジオをつけっぱなしにしているときの、さびしいやすらぎ。
それにしても今日は黄砂が北海道まで飛んできて、それなのに老母がシーツやタオルケットを外に干して、なんかひどいことになっているのだった。まあ、タクラマカン砂漠に探検に行くことを思えば、それくらいのほこりっぽさは何でもないだろうが、もう一回洗った方がいいだろうな。
ラジオのNHK第二をつけっぱなしにしているが、フロイトの抑圧の話をしているこの人は誰だろう。抑圧されたものはなくなるのではなく、偽装されて出て来る、というのはそうだろう。悩みというのは「怒り」の変種で、それをストレートに表していては他者に受け入れてもらえないから、それを押さえつける。「無意識」という言葉を使うとき、これからはもう少しこういうことを押さえておいた方がよいだろう。
フロイトのおさらいはいろいろ身につまされる。心理学の講義は実はとったことがないのだけれど、不登校大学生だったころ、宮城音弥とかどっさり買ってきて一時期読みふけったことがあったっけ。
Sigmund Freud - Exploring the Unconscious
私設研究室を物置に移す夢を見た
出口 たしかに、総力戦というものがどういうものかを理解していたら、軍縮問題もあれほどの大騒ぎにならなかったでしょうね。総力戦とは、国の全ての力を注ぎ込む戦いですから、最後はGDPが大きい方が勝つ。もし軍縮で一定の歯止めをかけなければ、圧倒的な国力を持つアメリカとは対抗することさえ難しい、とわかるはずです。
一九二一(大正一〇)年にワシントン軍縮会議で軍艦の保有制限が決められますが、日米のGDP比からいうと、対米六割というのはむしろ破格の扱いだった。
船橋 それが分っていたのが、日本の首席全権だった加藤友三郎海相ですね。これ以上アメリカといっしょになって建競争をしていたら、日本は潰れてしまうが、アメリカは潰れない、と。
水野 軍縮条約を結ばずに、もとの構想どおり八八艦隊(戦艦、巡洋艦各八隻を中心とする艦隊)を作ったとしたら、作って維持するのに国家予算の三分の一が使われる計算だったそうです。
外出の予定を取りやめて、昼寝して、夢を見た。
ぼくのうちの外に物置があるのだけれど、そこにデスクとパソコンを置いて、いい感じの私設研究室にしている、そんな夢。冬になったらストーブも置かなきゃあなあ…などと思い、内側からカギをかけ、ちょっとわかりにくい裏口から出る…そんなこんなしているうち、目が覚めた。
うちの物置はあんなカギのかかるドアではなく、たんなる引き戸だし、いろいろ現実とは違うのだけれど、おカネがあれば、物置に勉強部屋を移築するのは妙案かもしれない。物置に移動せぬまでも、暖かくなったし、私設研究室=四畳半を整理してひろびろ使えるようにしたらよいだろう。
この冬も少し洋書を読んだけれど、すっかりズボラになり、万年床の枕元がデスクの代わりになっていた。ここ数年、夜明けの遅い冬の間は未明から四畳半に入って外国語の本を読む習慣になっていたけれど、本だらけで、だいぶ狭くなった。すぐに使わないものは書庫に戻すことをしていかないと、いずれ空間の経済が破たんする。
DVDを観て過ごすはずの連休だったが、ラジオのキットを組み立て、それを鳴らしているうち終わってしまった。Surface Pro 3でDVDを観るというのも少しやってみたが、安物のポータブルDVDプレイヤーより画面が大きくてよかった。この間見たのはウディ・アレンの『セレブリティ』という映画。おっとなったのは、ドナルド・トランプがカメオ出演しているのだ。
ところで、これは持っているだろうか。急に読みたくなってきた。大津事件は、いっとき興味を持って本を集めて、それきりになっている。
平日が戻ってきて、街が閑散となったら、本屋に探しに。アマゾンでもいいんだけれど、本屋も定期的に行きたい。昨日届いたスリッポンは、今日はいているうちだいぶなじんできた。ふた夏ぐらいは履けそうだ。
パソコン自作、いまはまだ挑戦できず。
Beginners Guide: How to Build a Computer
quandaryは「板ばさみ」~早口言葉で学ぶ英語発音など
quandary ▶ noun (pl. quandaries) a state of perplexity or uncertainty over what to do in a difficult situation:
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リーダーズには「困惑、板ばさみ、苦境、難局」とある。今朝、未明に起きて、CNNを観ていたら、トランプがオバマケア(オバマの導入した米国の健康保険法案)を廃止する法案を僅差で通したニュース。共和党の面々がローズガーデンという中庭に出てきて次々にスピーチをしていた中で、たしかトランプがこれを口にした。トランプの案は過去に病気のある人が大いに不利になるものらしいが、トランプに言わせればオバマケアのおかげで保険会社が困っているという、その中で使われていたんだったか。
用例はどうかと言うと、たくさん載っているが、
I was in a quandary: should I just buy this hoping it was lemongrass or should I ask the man inside it was lemongrass first?
これは「迷った」と訳せる例だろう。概して、日本語の「迷った」「困った」が英語にならない場合がけっこうあると思うけれど、文語的になってもいい場合はこれが使えることがあるかもしれない。
今日も、日が暮れてから、こないだ組み立てたラジオをつけっぱなしにしている。Surfaceを立ち上げるとAMがノイズで聴こえなくなると思ったが、少し離せばどうということはない。NHKの第二をつけっぱなし。高校講座の国語とか、文化講座の宇宙物理学とか、基礎英語とか、テレビなんかつけているよりよっぽど面白い。
20年くらい前、大学に勤め始めたころは、土日も研究室にいた。そして、何をするというわけでもないけれど、ラジカセでNHK第二を聴いていた。語学の授業のやり方が、学習塾のやり方だとしつこくなってしまってうまくいかず、そんな時、ラジオの高校講座の石田正親さんという英語の先生の淡々とした講義のやり方が大変参考になったのを思い出す。あれは勉強になったなあ。
昨日は遠山顕さんがいろんな早口言葉でリスナーを鍛えるのをやっていて、とても勉強になった。ロシア語でも、モスクワに夏季研修に行くと、初級のクラスでは早口言葉をやっていて、楽しそうだった。ぼくらのクラスはもうそのレベルじゃない人たちばかりでやってくれなかったが、ぼくはむしろ初級クラスにまじりたかった気がする。
今日は基礎英語の先生が、もっともよく使う百の単語で会話の六十七パーセントをカバーできる、だからむずかしい単語を覚える前に、簡単な語を使いこなせるように、と言っていた。
それにしても、こないだまで雪が降っていたのに、この3日ほど25度を超える好天で、とてもうれしかった。明日はそんなに天気よくないだろうが、悪天候というほどでもないだろう。
アマゾンから靴が届くが、靴を通販で買うのは初めてなので、半分失敗。かたちが思ったのと少し違ううえに、ちょっときつい。ただ、ワンサイズ上だと明らかに脱げてしまってダメだろう。少しはいているうちに大きくなるんじゃないか。今度はやっぱお店で買おう。
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