俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ベサメ・ムーチョ~「人格者」をどう訳すか

magnanimous ▶adjective generous or forgiving, especially towards a rival or less powerful person:

 

Oxford Dictionary of English

Oxford Dictionary of English

 

  ぼくは野球にはいまほとんど興味がなく、知識もないのだけれど、たしか去年、イチローが日米通算の安打記録を更新したことは知っている。そのとき、メジャーリーグの安打数の記録保持者のピート・ローズがそのことを祝福せず、それだったらオレの記録にも高校時代の安打数を足してほしい、といった言動をおこなって狭量なところを見せた、というのもニュースで知っていた。

 それにたいするイチロー本人の回答のなかで、人格者、という言葉が出てきたのが記憶に残っていた。

 少しグーグルで検索すると、イチローは、ローズ自身に人格者であってほしかった、と言っていたのではなく、アメリカでもローズの記録を抜く人が現れてほしい、その人はジーターのような人格者であることが望ましい、といった、そんな発言だったのが確認できる。

 で、メモ代わりに書いておくけれど、この「人格者」をどう訳すかというのをずっと考えていた。

 去年は大統領選挙の年でもあって、しかもヒラリーとトランプの中傷合戦の様相を呈し、どっちが勝っても負けぎわが悪かろうなあ…と思っていたころ、何かでmagnanimousという形容詞を知って、ああこれか、と思ったのだった。

 リーダーズで引くと、「度量の大きな、雅量のある、寛大な、高潔な」とあるけれど、ニュースなどでは、はっきりと「ライバルをたたえる度量がある」という意味で

使われている。日本語でも「敵ながらあっぱれ」という言い方があるが、ライバルの力量をそのように認めるうつわがある、という、そんな意味だ。

 イチローのニュースについては英文の記事はチェックしていないからわからないが、ひょっとしたらそのように訳している例が見つかるかもしれない。

 

 昨日、おもちゃのようなラジオキットを組み立てたのはここに書いた。あのあと、Surfaceをたたんで、そのラジオをもう一度AMに切り換えると、実によく鳴る。で、NHK第一に合わせると、この声は道谷アナウンサー。黒崎政夫教授がSP盤を持ってきてプレイする番組だった。たぶん暮れやお盆に何度も放送されていて、昨日ですでに十回目かそこらだと言っていた気がするが、とてもよかった。クラシックやジャズ・ヴォーカルだけれど、電波に乗っても、音がCDとははっきり違う感じがわかる。

 で、今日の午後は春風亭昇太師匠がアナログ盤をプレイする番組。ただし十五時ごろだと、まだAMの入りが悪くて、いまひとつトークがわからない。そこで、これだけはタブレット端末のらじるらじるで聴いた。

 これも、そんな珍しい盤がかかるわけじゃないけれど、なかなかよかった。ゲストがタケカワユキヒデさんだったんだけれど、タケカワさんのお父さんがクラシック評論家で、そのために音楽一家だったというのをはじめて知った。七つ離れたピアノの上手なお兄さんが、高校時代、急にギターを始めて、トリオ・ロス・パンチョスのコピーをやるので、コーラスを手伝わされ、三度ハーモニーのつけ方をおぼえてしまったこととか、楽器店に出入りしていたら「君たちバンド?」と声を掛けられ、当時「サラリーマンコンパ」と呼ばれていたパブで生演奏をするようになったこととか。

 あとはタケカワさんが小学生のころの音楽の時間、先生が生徒を三グループに分けてドミソを歌わせるのだが、ドとソだけだとハモらないことに首をかしげる先生に、「先生、五度じゃハモるわけないですよ」と生意気なことを言ったりとかの思い出話。これは、たとえばぼくが音楽を教えていたとしたら同じ間違いをしただろうから、へえそうなんだと思いながら聴いた。

 いつだか萩原健太さんも『ロック巌流島』という番組で、この「五度」という言葉を使っていて、あのときは、ベーシストもきちんとコードのことを知っていないといけなくて、「オーギュメントなのに五度を弾くやつとかいますから」という指摘だった。そのときも、ぼくはオーギュメントが何のことかわからなくて、すぐ検索、ギターで指押さえをしてみて初めて、ああ、なるほど、オーギュメントは「五度」のところが半音上がるんだ、とわかったのだった。

 ラジオはほんといい情報源で、このあとまたこのSurfaceをたたんで聴こうと思う。


Trío Los Panchos - Bésame Mucho

 

  

 

ラジオの製作のまねごと~北海道は真夏の気温

 チキタに感染した者は、たいていは夜中に突然高熱(四十度から四十度五分)におそわれる。高熱は四時間ないし六時間続く。朝になると患者はいくらか疲労をおぼえるだけで、すっかりなおった気になる。夜の間高熱に苦しんだことなど悪夢を見たかのように思いがちで、患者はふだんどおりに起き、なかには仕事に出かける者さえある。だが、実はここにこそチキタの油断ならない実体があらわれているのだ。チキタの病原菌がつくりだす特殊な毒素は大脳中枢に作用し、患者は記憶を喪失する。時には、この記憶喪失は決定的になり、その場合には患者の記憶は完全になくなり、野蛮人に変わってしまう。また時には、患者は顔だけ、名前だけを忘れることもある。部分的な記憶喪失は、それこそさまざまなケースが見られた。[…]

 

  連休は人並みに連休の気分を味わいたい。そう思って、のんびり過ごしている。今日も、買いだめたままのDVDを観ながら過ごそうかくらいに思っていたけれど、アマゾンからラジオの組み立てキットが届いた。

 キットと言っても、基盤は組み上がっていてはんだ付けは必要なく、それを電池とスピーカーにつなぎ、音量や選局、バンド切り替えのつまみをドライバーでねじ止めするだけだ。で、これらが入っていた紙の小箱自体が筐体となるように穴も空けられるようになっている。ただ、取説を見ると、牛乳パックに取りつける製作例が載っている。これは面白そうだと思って、老母がゴミに出そうとしていたアイスコーヒーの紙パックに説明書通りの穴をあけ、作ってみた。

 チューナーはもちろんそんなにいいものじゃない。日中はAMの感度は悪く、NHK第二がかろうじて聴こえる。で、FMに切り換えると、これがいい感じで鳴る。今日は憲法記念日で、NHK-FMでは秋元康ソング三昧をやっている。これは聴かなくていいやと思っていたけれど、聴いていると面白い。稲垣潤一が三〇年以上前の「秋元くん」との出会いを振り返るところなんか、ひじょうに興味深かった。

 日が暮れると、AMの感度もよくなってしばらく基礎英語など聴いていたが、これを書こうとSurfaceを持ってきて立ち上げると、ノイズがひどくなってしまった。FMに切り換えると、こっちはノイズまじりながら聴けるので、また秋元康ソング三昧を聴いている。

 組み立てはほんの一時間弱で終わってしまって、とても電子工作と言えるレベルじゃないけれど、すごく楽しくて、とても明るい気持ちになった。自信を失って憂鬱になるようなときは、こういうことをやるといいかもしれない。パソコンの製作にも改めて興味がわいてきた。

 ぼくは電子回路の書き方を習得する代わりに、横文字の本を読む方に行った。それはそれでよく、しかし、文系という呼ばわり方の中に理数オンチのニュアンスが感じられたりするときは、たいそう心外な気がすることはよくあった。機械いじり方面に行っていたとしたら、どんな人生だったか。技術進歩についていけず、家電量販店の下請けかなんかやってただろうか。

 組み立てたラジオをずっといじっていると、老母は「いつまでも幼稚園児だねえ」と呆れている。

 たまにあることだけれど、ゴールデンウィーク後半の北海道は二十五度越えの真夏の気温。そうだ三十年前の今日はバド・パウエルを聴いていたんだ。

 


Make your own FM Radio - Part 1

 

 

 

認識されたものの認識~研究対象の次数をめぐって

リヴァイアサン』の解説を書くために、テニエスとクノウが、ホッブスの絶対主権の性格をめぐって、『ノイエ・ツァイト』誌上で論争を展開したことをしった。それを主要な材料として書いたのが、『歴史学研究』[…]に掲載された「ホッブスかいしゃくの一系列」である(のちに加筆のうえ『近代人の形成』に収録)。この論文については、当時日本評論社にいた吉田悟朗[…]から、編集委員会としては「もっと問題意識のあるものがほしかった」という希望がつたえられた。もちろん、資料貧困の問題意識過剰症には、当時から批判的であったとはいえ、イギリスとドイツの思想史的対比は、まえに書いたように、学生時代に高島さんや西川さんに教えられた問題であって、それがこの論文でまだ自分のものになっていなかったことはたしかである。しかし、ホッブス解釈史がそのままドイツ思想史であるということの意味、思想史のこまかいひだにわけいって、思想の機能変化を検証することのおもしろさを、ぼくはこの論文を書きながらはじめてしった。だから、悪戦苦闘していてもたのしかったし、いまでも、あとで加筆した部分よりも、まとまりのない前半の方がなつかしい。

 

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

ある精神の軌跡 (現代教養文庫 (1144))

 

  外国の思想の、そのまた研究史の研究などというのは二義的なもので、学問といえるのか、という問いは、あってよいと思う。思うけれど、例えばこの人のこの一節は、そのことに十分自覚的なので、研究史を引き写せば業績になる、といった安易なことが言われているわけではない。ドイツもまたイギリスの社会思想を咀嚼しようとした歴史を持ち、そのことの研究自体がドイツ思想史研究たりうるという、この機微をわかるかどうか。そこが分かれ目だ。

 文献学というもの自体がそういうもので、以下の本では文献学者ベックの言葉で、文献学は現実を認識するのではなく、誰かが認識して書き記したことをさらに認識する、という意味で、「認識されたものの認識」という言い方が紹介されていたと思う。現物が出てこないのだが、ぼくもこれに大いに力づけられた。それならばたしかに、研究対象の次数がひとつずれ、書かれたものこそが一次資料となる。

 

英語学とは何か (講談社学術文庫)

英語学とは何か (講談社学術文庫)

 

  書かれたものを読んで思索し、それを字にする、そのことが一生を賭けるに価する仕事たりうるのか、ということに悩まない文学の院生というのは、ひとりもいないだろう。皆そこを悩んで悩んで悩み抜く。理系の人々から「お前らくだらないことやってるな」といったあざけりを浴びせられることは日常茶飯事だ。あざけりとは言わずとも、書かれたものは二次的なものに過ぎず、なぜ現地へ飛んで実地調査をしないのか、と問われることもしょっちゅうだ。

 もちろん、社会学文化人類学はその方法をとるし、文学や歴史の研究者でも、可能な限り一次資料に近づこうとけんめいの努力を続ける人々もいる。

 

 

 

 しかしそうした少数例を免罪符のように掲げても、回答したことにはならない。何にたいして? しょせん人が書いたものを読むだけでしょ、それ研究なんですか、という問いにたいして。

 かつて研究室を持っていたころ、やんちゃな学生たちが遊びに来て、ひとりが、「せんせー、小説ばっか読んでないで仕事しろよ、あはは」と言って去ったことがあった。まさにそのこと。娯楽として小説を読むなど、誰でもやっていることだ。たとえ外国語小説であれ、それが仕事と言えるのかという目で世間は見る。そこをクリアできるかどうか。

 たまたまぼくはもう大学から給料と研究費を支給される立場にないけれど、この問題と完全に無縁になった気もしない。絶えず頭のどこかではこのことを考えている。このことを考えない日はないくらいだ。

 メモ代わりに。明日から数日、北海道は真夏並みになる。


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通訳者に向かない自分は河原で石拾いでも~でなけりゃどこかでアナログ盤あさりでも

 森山は、それを植村に渡し、のぞきこんだ。紙には横文字が数多く記されていて、二人は、それを低い声で発音した。

 Earsの右にMemeeと書かれ、森山は、Earsというアメリカ語を知らなかったので、所持していた蘭英英蘭対訳辞書をひらき、その部分をひいてみた。Earはオランダ語のoorで、sは複数をしめすものらしい、と察した。oorは耳の意味で、その右にあるMemeeをそのままメメと発音した森山は、思わず植村と顔を見合わせていた。もしかすると、と思ったが、まさか、と否定する気持ちも強かった。Memeeとは、日本語の耳の発音なのだろうか。

 その下のMouthという横文字は、森山も口を意味するアメリカ語であることを知っていた。その右にある横文字を低い声で読んだかれは、短い叫びに似た声を漏らした。そこにはQuichと書かれていた。

「マウスとはアメリカ語で口にござりまするが、この横文字はクイチと読めます」

森山の言葉に、植村は大きくうなずいた。

次のWaterという横文字は水で、そこメゼと読めるMezeという横文字が記され、森山の眼は一層光をおびた。Lanternというアメリカ語は知らず、辞書をひいてみると、オランダ語では発音も同じLantaanで、灯火という意。紙に視線をもどした森山は、そこにAndonとあるのをみて、驚きの声をあげた。

「植村様。この横文字は、オランダ語ランターンに相当いたします。これを御覧なさりませ、アンドンと読めます」

紙をさす森山の指先を見つめながら、植村は何度もうなずき、

「たしかに、たしかに」と、喘ぐように言った。

 

海の祭礼 (文春文庫)

海の祭礼 (文春文庫)

 

  蝦夷地・利尻島に流れ着いて保護されたラナルド・マクドナルドは温順な性格でもめ事を起こすこともなく、長崎に送られた後、英語の知識の不足に苦悩するその地の通詞たちと出会う。その中でも多少の英語に通じていた森山栄之助は、このマクドナルドが他の異人らと違い、積極的に日本語を知ろうとメモを取っていることに気づき、上のようなショックを受ける。

 半分くらい読んだか。明日中に読もう。マクドナルドと森山、このことは知っておいていいな。

 ぼくは自分では、通訳としてはまるで無能で、かなり無理をして引き受けても失敗も多く、心から感謝されたことが一度もない。これは実はかなりうまい人でもそうなので、切り抜いておくのを忘れたが、先日の「天声人語」で、政治家が自分の失敗を通訳に押しつけることはよくあることだ、というベテラン通訳者の発言を引用していた。

 知り合いにはかなりタフで度胸のいい通訳者もいるが、何かの動画で見たら、その人ですら公式の大舞台では緊張しっぱなしで、こっちの胃まで痛くなりそうだった。

 このへんのこと。魂まで捧げるような苦しみに満ちた営為としての通訳。その結果、かえって非難されることすらある。

 

 昨日ちらっと書いたとおり、子どもの頃は人並みにメカや顕微鏡のたぐいがすきな科学小僧だった。もう遠い昔だが、今さらではあるけれど、ラジオの組み立てのたぐいは少しやってみるかもしれない。子供の頃の愛読書はエジソンツィオルコフスキーの伝記だった。それでふつうの勤め人になれってのが無理だったかもしれない。通訳者のような高度な社会性の求められる仕事なんかなおさら。

 あと、古生物学の英書とか。ロシアでもカザンツェフという作家が古生物学について書いてるらしいけど、それはどこで読めるんだろうか。地学の参考書も、捨てちまったかなあ。院生の頃、寮で、地質学・鉱物学の院生の話を聞くのがすごく好きだった。古生物学は理系とはいえ就職は絶望的で、いわゆる文系就職をする人が多い、とかそんな話。奇跡的に学芸員になれる人もときたまいるらしいが、その場合、修士課程も終わらない人がこの機会を逃すまいと中退して就職した例もあったような話だった。で、ぼくも夏になったら河原でせめて岩石拾いでも、といつも思うが、ただしアンモナイトはこの辺では採れないらしいのが残念だ。

  で、今日は平日なのだな。普段から家にいる身としてはゴールデンウィークは関係がないような気もするけど、人並みに連休気分も味わいたく思うし、かと思ったら今日は平日なので働いている人も多い。大学も、通常通りというところが多いのかもしれない。

 そうそう、押し入れのケースからCDをいろいろ出してきた。聴ききれないくらいあるから、新たに買わずとも、当分飽きない。先日買ったB・B・キングのDVDもすごくよかった。ブルーズというのは、その語義にもかかわらず、ぼくにとってはとても楽しい音楽だ。アナログ盤もどっさりあって、クリーニングしながらひと夏聴こう。飽きたらまたふるもの屋さんへ棚をあさりに。希望を持とう。

Paleontology: A Brief History of Life (Templeton Science and Religion Series)

Paleontology: A Brief History of Life (Templeton Science and Religion Series)

 

 

 

宇宙人と古代人の謎 (1978年) (自然界の驚異シリーズ)

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世界の伝記〈1〉メンロパークの魔術師―エジソン

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Dinosaurs: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

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Thomas Edison: A Life of Invention (Sterling Point)

Thomas Edison: A Life of Invention (Sterling Point)

 

 

 

 

【科学工作】電気・磁気 AM/FMラジオ組立キット

【科学工作】電気・磁気 AM/FMラジオ組立キット

 

 


宇多田ヒカル - Automat

横文字を読みつつ地層のことを思う~北海道でもアンモナイトの出るところは限られていて

 ただし、産業革命だけとっても、これまで、さまざまな論点をめぐって論争が展開されてきました。たとえば、産業革命は産業社会を生みだしたか否か、という問題です。労働者は熟練技能を失って工場で働いていたのか、それとも、手に職を取り戻そうとしていたのか。資本家は経済合理性にもとづいて利益を最大にするために企業を経営したのか、それとも、縁故採用や慈善事業といった非経済合理的な行動によって人びとから尊敬されるほうを重視していたのか。十九世紀は自由主義を信奉する資本家の時代だったのか、それとも、地主や貴族が支配していたのか。こういった点については、今でも定説はありません。

 

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

 

  さっき、日テレのニュースで「OriHime」という分身ロボットを開発した若い発明家のことが報じられていたので、大変興味を持って観た。もともと不登校児で、母親が申し込んだロボットコンテストで優勝したのをきっかけに発明の道に入ったらしくて、ぼくは今でもそういう人に何となく近しさを感じる。

 

 もちろん、ぼくはあるときから理系の勉強をしなくなった怠け者で、そんなこと言う資格はまったくないのだけれど、子どもの頃はラジオを分解したり顕微鏡や望遠鏡に熱中したりで、親はてっきりこの子はエンジニアか何かになると思っていた。理・数は成績も当時はよかった。

 だから中学~高校の数年のうちにあれよあれよと俗っぽくなり、大学も行き当たりばったりで選んだぼくが、親をどれだけ失望させたかわからない。これは当時専攻した経済学が駄目だという意味ではない。主体的に自分に合った進路を選ばず、消去法で入試に古文・漢文のない学科を選んだという意味で、そのときの「楽をしたい」という気持ちばかりは、とうてい褒められたことではないのだ。

 と、ここまではいつも書いている愚痴なのだけれど、いま思うのは、理系の素養も身につけることを心がけて、理系・文系を越えた視点で産業革命を研究する、といったことがもし出来たら、さぞ面白かっただろう、ということ。資本主義の勃興をきちんとたどりたいと思ったら、科学や工学の知識がまったく不要だとはとうてい思えない。

 もちろん、そんな指導をしてくれる先生は文系の学部にはめったにいないだろうから、現実には難しかろう。科学論のような科目が必修とされている大学でも、では先生がたが現実に理系・文系の枠を超えた研究を志しているかと言えば、ぼくの経験ではそうではなかったと思う。

 さらにぼく自身が、大学院で文学を専攻したといえば、なおさらそういう志向とは無縁のように思われてしまうのは仕方ないことだった。文学、というだけで頑迷な非・科学志向の徒であるかのように言われるのは、もうまったく普通のことであると言っていい。

 いま、大学という場所から限りなく遠く離れて、何を勉強しようが誰にも文句を言われない身分でいるが、さてこれをどう使うかだ。

 たまたまぼくはロシア語教師だったけれど、経済をかじり、文学をかじり、歴史には並々ならぬ興味があり、そうして振り返ると、これに理系の基礎知識を足せば、なんだかすごく面白い化学反応が起こりそうな気がしてくる。基礎でいいのだ。何もこれから大学に就職しようというのではない。おのれがある時期から抱え込んだどうしようもない欠落を、少しでも埋めたい。例えば、経済史なり文学史なりと、「地層」という概念とは、まったく無縁であり得るのか。

 ただ、化石拾いに行きたいと思って少し調べたら、北海道でもアンモナイトが採れる地域というのは限られているらしくて。どうしたらいいか。

 


Cracking a great fossil Ammonite open

 

雨の札幌~世界史とか英語とかをがっちりやりたかったあの頃

 高校世界史の教科書といえば、ぼくにとってはもう二十年以上前の記憶になりますが、膨大な史実と年号がつめこまれ、それらを暗記するためにラインマーカーで何度も引いた線でいつの間にかグチャグチャになった本です(それくらい記憶力が悪かった、ということでしょうか)。

 では、内容がおもしろかったかとか、その背後に歴史家の 仕事を感じとれたか、といえば、答えは「う~む」というところ。先に、「膨大な史実と年号がつめこまれ」と書きましたが、要するに、ぼくの目には「教科書=年号つきの史実が時代順かつ地域別に並べられた年表を文章化したもの」としか見えなかったのです。年表がおもしろいか、といわれたら、年表マニアは別として、たいていの人は「うーむ」と唸ることでしょう。

 こんな印象は、独りぼくだけのものではないと思います。無味乾燥な史実が羅列されているだけとか、ストーリーがないとか、単一の歴史の見方を押し付けているとか。高校世界史に対する批判は枚挙に暇がありません。

 

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

 

  高校の勉強というのは、中学のころより、格段にむずかしい。壁があるのだ。世界史だけでなく、数学も、理科も、英語もそう。学校を頼りにしていてはダメで、自分の力で壁をぶち破る気概が必要。

 それにしても、世界史はあまりにとりつくしまがない。けっきょく、自分も、受験科目にできなかった。参考書も、いいものがなかったし。

 ただ、古代史からまんべんなく…という方法をやっている人はそんなにいないだろう。19世紀なら19世紀にパラシュート降下して、そこをがっちり固め、それから広げていく、というふうじゃないのかな。

 都会の進学校のやつらは、どうやら語呂合わせで覚えるらしい、と知ったのが、もうずっとあとになってのことで、今さらアタマに入りゃしないのだけれど、参考書のたぐいはたまに読む。英語学をやってる人だってイギリス史は必要だし、ロシア語ロシア文学をやっていればやはり世界史の知識は必須。まして政治学、経済学、現代のことだけわかればいいというものではなかろう。そういう環境にないからといって何もせずになどいられない。

 英語もそうだったのだ。けっしていい参考書や教材が田舎の本屋に転がってなどいなかった。ただ、通信添削をやっていたせいで、主要事項は例文を丸暗記する方法でかなり覚えたというだけの話だ。ずっとあとになるまで長文は苦痛だったし、単語はおぼえられないし、no sooner had he left the room than~のたぐいは、いまでも少し考え込まないと訳し損ねる。ただし、こうした構文は現代の英語を読んでいるかぎりやたら出てくるものでもないので、英語力を全体的に上げていくうち、こうした事項に極端な苦手意識を持つことが次第になくなっていった。当時難しいと感じた旺文社の英文解釈の参考書は、今に至るも読みごたえがある。

 連休だが、もっと休暇っぽい気分になるかと思ったら、そうでもないな。ヒッキーもいいけれど、北海道育ちのお母さんは、本物の天才だった。


雨の札幌★藤 圭子

 

 

一九九九年のゴールデンウィークの「コステロ音頭」の思い出

「この男は、時折りなにやら言葉を口にしますが、男には男の生まれ育った地の言葉があり、私たちにも言葉があります。異国の言葉であっても、努力をすれば言葉が通じ合えるのではないでしょうか」

[…]

「それは、通詞のお方であってようやく叶えられることだ。それらのお方は、生れつき特別な才にめぐまれている。蝦夷人との場合でも、言葉はことなり、通じ合うことはなかった。が、通詞のお方たちは長年の経験で一つの言葉を蝦夷人はどのように言うかをたしかめ、それによってつぎつぎに他の言葉をあきらかにし、通じ合うようになった。それも長い歳月をかけてようやくはたすことができたもので、私たちなどにできるはずはない」

[…]

「さようでござりますか」

[…]

「それに、そのようなことを勝手にすれば、御役所からのきついおとがめをうける。異国の者に親しく接することは御法度になっている。私たちもこの異国の者の身の安全をはかることにつとめねばならぬが、みだりに親しくしてはならぬことを忘れてはならぬ。[…」」

 

海の祭礼 (文春文庫)

海の祭礼 (文春文庫)

 

  不勉強とはこのことで、いまさらこんな小説を読んでいるが、田舎にずっといるもの、情報過疎は仕方ないのよ。それを自覚して、可能な限り知識を仕入れる努力をするのよ。それしかしょうがない。

 ゴールデンウィークだ。普段から家にいるから、連休なんてぜんぜん関係ないけれど、それでも連休は連休の気分になるから、これが我ながら不思議。気温も、今日あたりはそれほど暖かくもないけれど、来週あたりは初夏と呼んでいい気温の予報が出ているから、うれしいなあ。

 今日は散髪。老母が、「髪がのびてきたじゃないの」と言ったときは、こないだ切ったばっかだよ、と返しそうになったが、たしかに伸びていて、鏡で見るとイレイザーヘッドみたいになっているので切りに行った。午後は思い立って、シャツを買いに。普段行かない洋服店の、千円の割引券をもらったのだが、その期限が四月三十日となっている。ちょうどシャツを買わなきゃと思っていたので、行ってみた。

 いつも行くところより、少し高いかもしれないが、ぼくはサイズの問題でがまんすることが多くて、今日はその点はよかった。ネクタイをしてもいいストライプのシャツ二枚。夏用の靴下三足。それで退散した。春用の、いい感じのベストが並んでいたけれど、これは店員さんにはたずねなかった。スタイルのいい人だと、五月初めくらいは柄のいいシャツの上にこんなベストを着て、ハンチングをかぶって…という感じの着こなしを見ることがある。ぼくはとうていそのセンスはなく、たいていはだぼっとジャケットを着ないと収まらない。ベストが必要な間は、冬用のを着てればいいだろう。

 でもって、寄るつもりのなかったホームセンターにふらりと入って、バッタものの音楽DVD。さいしょB・B・キングのを一枚だけ買うつもりでレジに持って行ったら、これが三〇〇円ちょっとなんだわ。「あれ、こんなに安いですか?」と訊き返したもん。店員さんも「え?」となったけど、よく見ると、「特価」の表示で、「間違いないですよ」とのこと。ならばともう二枚買った。ジェームズ・ブラウンが一枚と、レイ・チャールズとウィリー・ネルソンの共演盤が一枚。三枚買って千円くらい。連休はこれで過ごそう、と思った。バッタものの音楽DVDざんまい、最高じゃないのさ。

 それと、これを注文。上掲の『海の祭礼』の主人公、ラナルド・マクドナルドのことを書いた本。スコットランド系の父とネイティブアメリカンの母の間に生まれ、白人社会に受け入れられないことを知ったラナルドが、日本へのあこがれをつのらせて密入国を果たす、そのいきさつが、これではどう書かれているのか興味を抑えられなくなった。

 

Native American in the Land of the Shogun: Ranald Macdonald and the Opening of Japan

Native American in the Land of the Shogun: Ranald Macdonald and the Opening of Japan

 

 

  いつかのゴールデンウィーク、特急に乗って札幌へ出たはいいけれど、数日間ATMが休止していて、参ったことがある。あの時は、頼みの綱のクレカも、新しいカードが送られてきたのをすっかり忘れて、期限の切れたのを持って行ってしまった。結果、ひどい不便な旅だったけれど、北24条から後輩たちとバカ騒ぎしながら歩いてホテルに帰るのがすごく楽しかったのを憶えている。途中、まだ開いていた新古本屋かどこかでエルヴィス・コステロを買ったんだっけなあ。アナログ時代に買いそびれた、「シップビルディング」のはいってるやつ。「何買ったんですか?」「エルヴィス・コステロ」「ああ」なんて会話すら、五月の札幌の夜気とともに、はっきり憶えている。礼儀正しい、明朗な若者たち。

 

パンチ・ザ・クロック(紙ジャケット仕様)

パンチ・ザ・クロック(紙ジャケット仕様)

 

 

 あれからもう、いったい何年が経つのか。誰も訪ねてこない、知人からのメールすらめったに来ないけれど、この空の下で、あの人もあの人も、みんな一生懸命暮らしてるんだろうな。


Elvis Costello - The World And His Wife