俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

湯浅学『音山』

この本、10年前の4月に出てます。今の今まで手に取らなかった僕の目は、ほんと、節穴です。

湯浅学『音山』(1999年、水声社

湯浅学さん。雑誌のレコード評などで断片的にその文業に接していましたが、そのオーヴァードライヴのかかった、独特の修辞を駆使した文体はいつも読み応えがあります。先日、単行本、どんなのが出てるのかとアマゾンを検索、これを注文してみました。

レコード評とライナーノーツのたぐいの寄せ集めですが、すごく濃いです。同趣旨の『音海』の続編とありますが、「本書ではアメリカ黒人音楽について書かれたものを多めに収録するよう努めた」とのことで、ここ最近の僕の趣味の風向きともぴったり合っています。ジャズ/ジャズ以外の黒人音楽、その境界は果たして存在するのかしないのか、勝手に僕らが存在すると思ってるだけなのか、あるいは厳として存在するけれども、ある種の感性を身につけるとそれを自由にまたぎ越せるようになるのか、さてはなだらかなグラデーションをなしているのか…などということを取り留めなく考えている僕にとっては、とても参考になる本です。たとえば電化されたサウンドを奏でるようになったマイルス・デイヴィスを論じた次の一節なんざ、どんなもんでしょう。

「ジャズはジャズになってなきゃジャズじゃないとジャズ・ファンは言いたがるもんだ。それならば、何がジャズなわけよ。いったいジャズのどこがそんなにエライもんなのよ。ジャズ好きってなんであんなに居丈高なんだ。と思うことって多いわけだが、それもまあ気持ちとしてわからないではない」(183頁)

…いえ、僕の知ってるジャズ・ファンはみなさん寛容な方ばかりで、「キミの悪趣味と無知を直してあげよう」的な厭味はあんまり言われた経験ないですが、たとえば、昨日書いたT-ボーン・ウォーカーをいわゆる「ジャズ喫茶」で耳にすることってないわけで、この国ではやっぱり、音楽のジャンル名の間には見えない結界が張りめぐらされている、と思います。上に引いた一節は、その点をズバリ指摘しながら、ジャズ・ファンがそう考えるのも、まあわからなくはない、と一歩退くうまさ。ジャズの知識って、わかるようになると、誰でもちょっと鼻にかけたくなるもんです。ある意味、日本のジャズ・ファンの鑑識眼の高さって世界一と言ってもいいくらいですが、その箱庭のような端整さに自閉してしまうと、マイルスがなぜ『ビッチェス・ブリュー』や『オン・ザ・コーナー』のようなアルバムを作らなければならなかったか、まるでわからなくなります。そう、「社会の敵」になってまで「制度化されたジャズをいきなり濃厚なファンクでぶちこわ」してしまったマイルスの、内的必然性のようなもの。大半のジャズ・ファンが当惑したのも無理ないです。ジミヘンやスライを、そしてPファンクを聴いてきた「僕ら」にならわかる、と胸を張りたいところですが、「僕ら」にだって、『ビッチェス・ブリュー』、わかりません。そこのところを、うまく説明してくれた文章です。「感覚的、内的必然性としてのアフロセントリズムの標榜」。ちょっと教科書的ですが、なるほどね。

なんにせよ、この本、10年前に出ていたわけで、僕はほんと、この10年間、どこか何の情報も入ってこない、暗い洞窟のような場所にいたような気分です。勉強になりました。ちなみにタイトルは「おとやま」ではなく「おんざん」と読むようです。