206番に乗らずに済ませた京都について
日本のように一つの国で一つの言語に統一されている例は世界では決して多くない。国の中でいくつかの言葉が話され従っていくつかの言語が積極的にせよ、消極的にせよ習得される。リルケの場合も家庭で話したドイツ語と街できくチェコ語はそのようにして習得され、さらに、フランス語、ロシア語へとその知識は広がってゆく。しかし、このことは四つの言語がいつもできたのではなく、ある時期にはある言語は忘れられているのである。自分の母国語といわれるものはともかく、その他の言語はあんがいあっさり忘れていくし、母国語でさえ使う機会がないとその危険がある。
京都に行ってきた話。
とにかくしごとの一環として行ってきたわけだけれども、京都大学というところがその会の会場だった。で、以前一回行ったことがあるので大丈夫だろうと思っていた。
事実大丈夫だったのだけれど、駅からバスに乗るか、地下鉄で今出川まで行ってそこからバスに乗るか、少し迷った。で、地下鉄がよかろうという気がして、地下鉄に乗った。
で、降りて、次はバスだが、バス停がわからない。地上に出てすぐに出くわしたバス停では立命館大学行きの路線しか示されていない。で、コンビニに入った。店員さんは忙しそうだったので、イートインに座ってスマートフォンをいじっている学生風の男子に尋ねたら、「あっち方向なのは確かです」と道を示す。見るとそっち方向にバス停がある。ああ、見た記憶あるぞ。同志社大学大学院という看板のかかった立派な門があるところ。
そのバス停はいくつかの路線が通るみたいで、よそ者にはその表示されている路線図すら読み解けない。で、若い男女二人連れに尋ねると、201番というバスが来るのでそれに乗れ、とのことだ。なんか聞いたことがると思って「くるりの曲みたいですね」と言ったら相手はきょとんとして、「そこまで詳しくなくてすみません」と言うので、「いや余計なことでした」とごまかした。
あとで思い出したが、くるりの「京都の大学生」に出てくるバスは201番じゃない、206番だ。あとで、それは京都駅から京大へ来るときに乗るバスだと判った。今回はそっちに乗らなかったけれど、会の主催者の先生らによれば、そっちは京大に来る前にいくつかの観光名所となっている寺院を通るので、観光客で混み、しかも遅れがちというので、乗らなくてかえってよかったわけだ。
会場は文学部なんだけれど、さいしょ間違えて、正門ではなく南キャンパスの門のほうへ入ってしまい、しばらく迷った。以前学会できたことがあるが、どうもそこは文学部じゃないみたいで、見覚えのある棟の前に立つものの、今回は開くドアもない。学生さんをつかまえて尋ねて、通りをはさんで逆側に正門があり、文学部はそっちのキャンパスだと知った。
昨日は空港には20分遅れで着陸。今日だと台風が直撃して、そもそも関西方面は全て欠航だ。昨日帰れて運がよかった。道の途中でうちに電話するとたまたま妹が来ていて、ご飯の支度はしてないみたいだから寿司でも買ってくればと言うので、そうした。肩の荷が下りた解放感で、みやげ話を老母に聞かせながら、とても楽しい夕食だった。
このひとつ前のエントリーは昨日投稿したつもりが、すでに日付が変わった深夜だった。今日の日付で二つ目の投稿になってしまうが、そういうわけなので。