俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

なのにあなたは京都へゆくの

 彼は自分の脳や舌にべっとりとこびりついた日本語を非母国語化しなければならないと思った。そこで彼は外国語と恋愛しようとした。外国語大学でロシヤ語を専攻し、第二外国語でフランス語を学び、スペイン語の学習を趣味にし、英語の学習を息抜きにした。しばしば自主的に長期休暇をつくって自宅に籠り、修行僧となって語学学習を行なった。合わせて言語学の勉強もした。ともかく日本語を聞かないために身のまわりを外国語で固めた。外出する時はヘッドフォンステレオをつけて外国語の歌を聞いていた。また、ポリグロットだけに許される遊びもよくした。例えば、ロシヤ民謡を聞きながらスペイン語のテキストを読んだり[…]

 

亡命旅行者は叫び呟く (福武文庫)

亡命旅行者は叫び呟く (福武文庫)

 

  島田雅彦のこれは本当に印象に残る一冊だった。

 表題作の、この一節。80年代の前半にはぼくは言語学とはほとんど何の関係もない縁なき衆生だったけれど、英語の先生の研究室に少しの間通ってドイツ語を直されたり、ということがあって、80年代の後半に千野栄一先生の本を偶然手に取って、ああそうだったのか、こんな道があったのか、と眼を見開くことになる。けれど、よく考えれば、84年に単行本になったこの本のこの一節に、はっきりとその予兆はあったのだった。

 この一節など、やはり千野先生の本と読み比べると面白いと思うし、たしか千野先生の本のどこかに、チェロを弾く学生としての島田氏自身に言及したカ所があったようにも思うのだ。

 ただ、いつもわからないのが、アフガン事件のあとから80年代の前半にはロシア語は今以上に不人気だったはずで、ペレストロイカ以前のその時期に、その後の、いまから見ればいっときではあるが爆発的なロシア語ブームを予感したかのようにロシア語をとっていた人たちのこと。島田氏のことだけじゃなく、何人も、ペレストロイカとは何の関係もなく、その時期ロシア語を身につけた人々がいる。その時期、どうしてそういう選択ができたのか、すごく興味がある。

 当時はやはり制度の壁に阻まれて、外国語大学へでも行かない限り、そんな道はないように思っていた。それはある意味いまでもそうなのだ。語学は自分でやるものには違いないが、独立独歩で始めたばあい、独学者特有の偏狭さにおちいってしまう危険性も決して小さくはなく、いい先生や仲間に恵まれて勉強をするのが理想には違いないのだ。ロシア語でメールを書くとき、英語のようには自由に書けないことに、自分は今も毎日のように苦悩している。

 この一節を読むと、何か、当時のことがもやのむこうのようにかすんで見える感じがする。もう、自分の人生の一部じゃないみたいにも感ずる。


天地真理 ☆ なのにあなたは京都へゆくの