俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Russian English Speaking Girl

 当時のわたしは充分に傲慢であって、文学の勉強などは自分で書物を読んでいればひとりでに出来るものだと、高を括っていたのである。加えてわたしは、選択する言語によって文学が分断されてしまうという大学の制度を理解できないでいた。どうしてボードレールを読む者が、そのためにブルガーコフを諦めなければならないというのか。

 

先生とわたし (新潮文庫)

先生とわたし (新潮文庫)

 
先生とわたし

先生とわたし

 

  先日でしたか、さる中央アジア考古学の大先生が韓国の大学で講演している様子がNHKEテレで映ってましたね。シベリア抑留を経験し、戦後、魅入られたようにソ連各地の発掘を手掛けた大家は「これからの若い人は外国語も五つぐらいやって…」と話していて、韓国の女子学生さんたち、苦笑してましたね。

 外国語はいろいろかじるといいよ。ただ、このところぼくが考えているのは、そこそこ使える外国語はいくつあればよいか、ということ。このぼくの、この人生に限っては、ドイツ語もものにならず、フランス語は学ぶ機会がなく、英語とロシア語、それで手一杯かな、ともう明けても暮れてもそればかり考えてます。

 多言語に通じた天才たちというのは確かにいて、四方田先生もそのおひとりなんじゃないかなあ。上の一節では、可能性に満ちた優秀な若者らしいナイーヴさを再現して、「諦めなければならないというのか」と問うておられます。この場合、諦める、というのは消極的な、悪い意味ですね。

 ここからはぼくの経験ですが、自分の時間と知力には限界がある、と悟った時には「諦める」=「断念」ということもまた大事。丸山真男先生が、政治とは断念の技術だ、と喝破した、というのは有名です。理想を言えばあれもこれもぜんぶ大事だが、投入できる手持ちの資源には限りがある、どこかを切り捨てなければリソースのすべてが無駄になる、ということがはっきりしている場合、目標のどれかを「断念」することが必要となります。ぼくは二度目の学生生活で学習塾バイトを三軒掛け持ちするような苦しい生活の中で、せっかくものになりかけたドイツ語を捨てました。露文の大学院に行くためには、ロシア語、英語、あのころのぼくのレベルじゃどうしようもないのははっきりしてましたから。

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 で、今はどこの大学も英語重視で、第二外国語は多くの大学で形だけのものになりつつあります。「二兎追う者は…」という世間知が、それを補強します。英語もできないのに〇〇語なんて…と、どこもそんな風潮ではないですか。

 ただ、ぼくとしては、ふたつ、という最低線は生涯死守したい。今はどこにも所属がありませんが、もし勤めているとしたら、その姿勢だけは学生に見せたい。ロシア語教師だけど、英語学習も相談に乗るよ、というくらいでいたい。じっさいにはたくさんの学生たちが、形だけ第二外国語を履修して社会に出てゆくのを見送ることにはなるんですが、ぼくぐらいの平凡な知力でも、ふたつまでは何とかなることを、具体的に、立体的に、魅惑的に見せられたら。

 秋の日の、白昼夢か。お昼の冷たい蕎麦がおいしかった。


RUSSIAN ENGLISH SPEAKING GIRL - how ...