俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

アナロジーについて考える寒い四月某日~MacBookも一度使ってみたい

 このように読者のみなさんには、ヘーゲルの思想やモノの見方を具体的な例に落とし込んでいく技法を身に付けていってほしいのです。安保関連法やプーチンのような大きな題材だけでなく、洗面器のお湯に温度計を入れるとか世論調査のやり方といった身近な例で構いません。

 この作業に必要なのは、入学試験や資格試験のために身に付けてきた、公式や理論を憶えて練習問題を解いていくという技法ではなく、物事を類比的に理解していくアナロジーの技法です。アナロジーとは、物事にある何らかの鋳型やひな形がどう変形しているかを推論することで、ヘーゲルが言っていることの関係性や構造がまったく関係ない問題にもどういうふうに表れているかという読み解きをしていくのです。神学では、アナロジーを多用します。物事の森羅万象から神の意志を読み解くというように「アナロジー」を使えば「関係の類比」になります。

 思考の鋳型を身に付けるには哲学の知識が必要ですが、アナロジカルな見方をするためには文学的な素養が必要になります。すぐれた小説を読んだり映画を観たりすることは、他の人の体験を類比的にとらえていくために必要なことです。

(157~158ページ)

 

知の操縦法

知の操縦法

 

  おっとなったので、拾っておこう。

 ぼく個人の体験にすぎないのかもしれないが、「それはアナロジーだ」というのは、本質を衝いてないからお前のその論法はNG,という意味でつかわれることが多い気がする。つまり、形が似てるからというだけで違うものを同列に並べるのは、ただの牽強付会ですよ、という。そういう理由で論文なりレポートなりにケチがつくということはよくあるように思う。そういう経験ないですか。

 けっきょく、裏付けとなる調査とか、客観性とか、説得力とか、そういうものを合わせての評価だろうから、アナロジーがもとになっているから絶対にダメというわけでもないのかもしれない。自分のばあい、もともと歌謡曲における「パクリ」の問題をめぐって道楽としての音楽に深く深くのめり込んだことが、そののち多少心を入れ替えて学問の道に入ろうとした時にもまがった方向に出ちゃって。

 いや、それでうまくいっているかのように思っていたときもあった。ほんの何本かは「あれはよかった」といってもらえた論文が、ずっと過去にはあって、それはでもやはり、自分で言うのも変だが、アナロジーに人一倍敏感だったからじゃないのか、と今でも思うのだ。

 中学生の頃、音楽の時間に「早春譜」を歌わされた人も多いと思うけれど、ぼくのころ、となりのクラスのやつらは、「これ『知床旅情』でないのか」と言って、みんな不満そうに歌っていた、ということがあった。なんだか懐かしい。

 ハロルド・ブルームか誰かが言っていた通り、そういうもののリサーチはやがてコンピューターがやるようになり、黙示録的に終わってっしまうだろう気もするけれど、脳のよろこびとしてのアナロジーって、やっぱりあるように思う。

 パソコン、やはり先立つものしだいということで、当分新調はできないかなあ、と思いつつ、動画など見てしまう。CPUがCoreiじゃないシリーズって、どれくらいの実力なんだろうか。


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影響の不安―詩の理論のために

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