淡々と訳読する授業にも不思議な魅力が宿りうるということについて
『ドミニック』は私の若い頃の愛読書で、そのきっかけになったのは、学生時代に豊島輿志雄先生のティボーテの『内面』(ボードレール、フロマンタン、アミエルの評論)の講読の時間に出席したことだった。豊島さんんの担当は一般語学のフランス語の筈だったが、毎時間学生には当てずに、ポケットから本を取リ出して(一緒に出席していた友人の記憶によれば、一冊の本をばらしていつもその日の部分だけを持って来られたらしい)、ご自身で淡々と訳して行かれるだけだった。文法を学ぶつもりで出席した私はあてが外れたが、この訳読にはふしぎな魅力があって、とうとう一年間きき続けてしまったことを覚えている。
なんとうらやましい。ふしぎな魅力をもつ授業。そんな授業を自分でも聞いてみたかったという意味でうらやましく、また、淡々と訳読するだけの授業にそれだけの魅力を持たせることのできる先生というのが、またうらやましい。
ぼくは良くも悪くも予備校講師的な教師だったから、授業アンケートではそう悪い評価は出なかったけれど、心ある学生からすれば、ぼくの根底には「客の機嫌を損ねぬよう」というよこしまな媚があることは見え見えなのだった。
淡々とケレン味なく外国語を訳読するなどという授業は、学生が退屈するのでは…などと恐れている弱虫にはとうていできるもんではない。そういう、子供のご機嫌を取る姿勢といかにすっぱり手を切るか、ここが勝負の分かれ目だったのだ。
ぼくはある時期からずっと塾講師をしながら大学・大学院に通う生活で、下僕根性があまりにしみ込み過ぎてしまった。たいていの人は、たとえそういう経歴が長かろうとも、ごくすんなり大学教師になりおおせるのが普通だと思うが、ぼくはそこのところでさいしょの〈民間企業経験〉が悪い方向に出てしまったと思う。後輩などを見ていても、なまじ会社勤め経験のない者のほうが、たとえ非常勤であれ、堂々と大学教師をしている。
Surface Pro 3を毎日使っているが、これも耐用年数はそう長いもんじゃないんだろうな。スキャンしてきたテクストをたくさん入れているから、マルチ・ディスプレイにして、それを大スクリーンで読みつつ作業したいんだけれど、デスクが狭すぎて、無理か。
The Amazing Surface Pro 3 : Tips and Tricks