俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

枯れ野のなかの書庫~九階にある研究室から東京の街を見おろしながら、とさる教授はいう

 いくつかの偶然が重なって、私は今九階にある研究室から海の方向に東京の街を見おろしながら本を読んでいる。そして、自分なりに充分に楽しんでいる。本来そう言えばすんでしまうはずのことが、しかしながら、今ではそう説明するだけではすまなくなっている。問題は、本を楽しんでいる自分を見つめている私の中のもうひとつの眼の存在だ。

 

文化と精読―新しい文学入門

文化と精読―新しい文学入門

 

 

  これは出てからこんなに経つのか。十五年近く前だ。

 自分がそういう問題意識を十全に共有していたといい募るつもりはない。しかし、2000年代にぼくが書いたわずかな数の論文は、ぜんぶこれに方向づけられている。

 ぼくが英文学を体系的に学んだことがあるとは言えないので、内容を咀嚼できた自信はまったくない。が、冒頭のここだけでも、問題提起としてはもうじゅうぶんに強烈だった。長々引用するつもりはないけれど、むかしはこんなことは考える必要がなかったことを振り返りつつ、次のパラグラフはこう始まる。

それに、仕事柄、本を読むという行為を自己充足的な快楽の雰囲気のうちに解消させて、それで能事終われりとするわけにはいかない理由がある。大学という研究と教育のための制度の中にいる以上は、教師として学生に向かうということと文学を読む自分自身を対象化するということを義務として引き受けねばならないのであって、文学は教えられないという姿勢を誇示するわけにはいかないからだ。かつてはそのように考える必要などなかったのかもしれないが、今ではもう純粋に自足した享受者をきどるという生き方は通用しないであろう。

 いや、だからそうなんだって。一部の特権的な大先生は自己充足的な享受者であることを誇示しても説得力があるだろうけれど、それ未満の「学問的下級霊」(©村上春樹)がこの世知辛いご時世にそのまねをしたところで、その先には果てしのない縮小再生産のプロセスが待っているだけなんじゃないか。 

 …というか、この本を今日書庫から持ってきたのは、冒頭の「九階にある研究室」というところがうらやましくなったからだ。前にも書いたとおり、今日び、広壮なキャンパスのなかに居室を与えられても、そこでじっくり研究ができるなどという保証は今やどこにもない。もう大学に籍を置くことのない自分にとっては「研究室」とは「心のありよう state of mind」であって、物理的な空間としては、本と、机と、パソコンが置ける小さな部屋が、そして静かな未明の数時間があればそれでよい、それは本当にそう思っている。それでもこの時期、あちこちの研究室の引っ越しの話がきこえてくると、やはり、ちょっとうらやましい。七年ほどこの本を納めてあった書庫は、雪がとけて枯れ野のようになった空き地にポツンとあって、それでもぼくの数少ない知的資産だ。

 数年がかりのしごとは、ひょっとして今が山なのかもしれないが、まあゆっくりいこう。今さらながら、紙の資料を見つつ二つ以上のソフトウエアを小さな画面で操作するのはひどく面倒で、マルチディスプレイだとはかどる気がする。で、Surface Pro 3のドッキング・ステーション、買うかどうか検討など。おもちゃがわりに安価な中古マックブックを買う計画は、見合わせ。


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