俺のせいで甲子園に行けなかった~星くず語学徒冬学期7日目
歴史の流れが「いま・ここ・私」へ至ったのは、さまざまな歴史的条件が予定調和的に総合されていった結果というより、[…]さまざまな可能性が排除されて、むしろどんどんやせ細ってきたプロセスではないのか、というのがフーコーの根源的な問いかけです。
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2002/06/20
- メディア: 新書
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拾っておこう。昨年、このあたりのことをずいぶん考えていた。
フーコーは、読んでないのに読んだふりして…の口だけど、本は買ってある。英訳も何冊かあったはず、そちらで読んでもいいが、英訳は頭から信じてしまうといろいろ間違いも起きそうな気はするんで、フランス語の読めないぼくとしては、信頼できる邦訳を読むのがいちばん無難ではあろう。
フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。
それは、「これらの出来事はどのように語られてきたか?」ではなく、「これらの出来事はどのように語られずに来たか?」です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。
事物の起源が隠蔽され、あたかもそれがずっと昔からあったかのように見える。しかしそれは、あるとき諸要素が干渉しあってたまたま成ったものが、そう見えているに過ぎない。これはいろいろ応用の効く論法で、今回の学会報告とはあまり関係はないが、それが終わったら、今一度振り返って深めておきたいものの一つだ。
星くず語学徒、冬学期七日目。ロシア語と英語をやっていると一日終わってしまう。英語週刊誌などもうやめてしまえばいいんだろうが、語学は水が流れているのと一緒で、いったん流れを止めてしまうと、その川は干上がってしまう。だから、やめられないんである。購読の更新の通知が来る時期がそろそろだ。