宮沢喜一の英語インタビュー
伊藤[博文]の一般的なイメージは、利害調整に長けた現実主義的な政治家としてのものだろう。吉田松陰が若き日の伊藤を「周旋家」と評したことは、よく知られている。長州でいえば高杉晋作や木戸孝允、薩摩でいえば西郷隆盛や大久保利通といった維新の第一世代と比べ、はるかに思想性の希薄な実務的な人物として理解されることが多い。必然的に、アカデミズムにおける伊藤への注目は近年になるまで大きくなく、小説などでも主役として描かれることは稀であった。
しかしながら、そのような伊藤のイメージは、最近になって急速に変化しつつある。例えば、法制史家の瀧井一博によれば、伊藤はむしろ「知の政治家」であったという[…]。幕末の短期の英国留学で英語を学んだ伊藤は、明治になってからも、英字新聞や洋書を読むのを楽しんだ。伊藤一流のポーズとして反発を買うことも多かったが、若き日の津田梅子に「アメリカを知る最良の書」としてアレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を薦めたというエピソードからも推し量れるように、伊藤の欧米理解は決して蔑れないものであった。
保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)
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拾っておく。こないだ借りなおして読んでいる本だか、買ってしまいそうだ。
この、明治の基調に流れる英国的な通奏低音を、憶えておくべきだろう。これは、なぜこんにちのわれわれがこんなにも英語を学ばなければならないのかという問題とは、直接関係あるわけではないけれど、どこかでつながっている。
伊藤博文の動画ってのはないから、宮沢喜一が英語をしゃべっている動画を貼っておく。
英語に堪能な政治家と言うと、こんにちでは別の〈あの人〉などが真っ先に思い浮かぶけれど、たしかあの人は、英語は耳から会話として入ったほうが面白いと言っていて、それはなるほどたしかにそうなんだが、そう言ってしまうと常識的過ぎるというか、俗耳に入りやすい決まり文句になってしまって、あんまり感銘を受けない。
むしろ、旧制高校仕込みの英語ががっちりと基礎にあった宮沢喜一のほうに、ぼくなんかは興味がある。たしか、戦後、アメリカに渡って〈しゃべる英語〉を耳で聞いて、ああ、こんな感じか、と開眼した、という話をどこかでしていたと思うが、そのほうがリアリティがある。基礎があれば、あとは音声の慣れだけだ。以下の動画でも、文法からはずれた会話は行われていない。内容は、アメリカの対日貿易赤字のことで、何ともなつかしいというか…