逢わずに愛して
以前、同僚と雑談をしているとき、自分の蔵書の三分の一くらい読んでいる学者は立派な学者だという話を聞いた。もちろん、残りの三分の二が無駄だということではない。いつか必要になりそうな本を(おそらく必要以上に)確保しておこうとするのが学者の習性なのだ。
僕はそもそも本持ちではないので、蔵書の三分の一くらいは読んでいるが、(立派な学者ならぬ、そこそこの愛書家と言うところか)、最初から最後までちゃんと読んだ英書だけを集めたら、せいぜい四〇〇~五〇〇冊、家庭用の本箱で三つ分ぐらいにしかならないだろう。それも過去二五年くらいかかって読んだ本だ。[…]
ぼくはそんなには読んでいないな。制度的にはロシア文学の教育を受けたぼくがまともに読んだロシア語の本は本当に少なく、今でもともすれば、英訳があればそっちを先に読んでしまう。
ただ、いつ必要になるかわからない本を買っておくということは、ぼくもずっと心がけてきたし、書棚いくつか分のロシア作家の全集・選集のたぐいがこの隣の部屋に集めてある。
勤めていた時、意を決して、研究室にならべてあったそれらの私費で買った本を、総てマンションに移動させた。そのとき、廊下に積んだ段ボールを見た教授が驚き、「どうしたんですか?」と訊いてきたのは、他大に異動するのか、とか、退職するのか、といった意味だったろう。まあ、自宅に本を移動させたくらいでは当時の生活の根本的矛盾は解決するはずもなく、結局数年後、研究室そのものをたたむことにはなったのだけれど。
外国語の読書力は、若い時つけなくてはダメだ。そして、それを維持できるだけの読書時間を、意図的に捻出しなくてはダメだ。何人かの多読家を見ていると、そのうち、すきま時間でも結構な量が読めるという境地になるようだ。外国語の本を400冊、500冊読めれば、ふつうの地方私大なんかでは、大学者だよ。