間テクスト性と実証
せっかく確保した一日を空費。空しい一日。しかし収穫がナンニモなしでもありませんでした。
あの作家のこの作品とこの作家のこの作品、どう読んでもこの部分がかぶってしょうがない。そんな体験を「間テクスト性」、とひとまず定義しましょうか。これ、人文系の学問に理解のあるかたには一定の通用力をもった言葉なんだと素朴に思っていたんですが、分野が違うと通用しない場合ってあるのですね。たとえば歴史学が絶対譲らない一線、「実証主義」との関連。
「文学研究であれば、ウルフとクラインの『間テクスト性』といった関連をたとえば『不可視のパラダイム』として想定することが少なくとも議論の出発点として許されるはずだ。テクストに言語化されていないがテクストの言語を根源的に決定している超越論性、テクストの言語を構造化する或る『否定性=negativity』。根源的な水準で、主体の存在論的条件であるにも拘らず、主体(の言語)を通じては直接アクセスできないあのフロイト的『無意識』も形式上この領野に属する。[…]しかし『実証主義=positivism』は定義上このnegativityを認めない」(遠藤不比人「歴史主義の中心で/の『歴史』を叫ぶ─(英)文学的精読がいまできること」、『英語青年』、2006年10月号、16頁)
つまり、これをお書きになった方は、ウルフがクラインを読んでいた具体的証拠があるのか、ないんならそんな議論には耳は貸さんぞ、と一蹴されたというわけです。たしかに、そう「実証的」に来られちゃうと、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の宇崎竜童さんがテイスト「セイム・オールド・ストーリー」を聴いていたとか、「経験」の村井邦夫氏がクリス・モンテス「愛の聖書」を聴いていた、とかいう積極的=実証的証拠は、我々、何も持ってないわけでありまして…あと「旅人よ」の加山雄三氏が吉永小百合「寒い朝」を聴いたことがあったかなかったか、とかね。ないはずない、というのが常識的判断だと思うのですが…
関テクスト性。「本歌取り」という問題系と関連して論じられることも多いですが、僕がこの概念に強く惹かれるのは、歌謡曲における「パクリ」の問題で、子供のころずいぶんあれこれ考えたからですね。上に引いた論文はまた全然違う角度から間テクスト性に光を当てていて、やっぱ、たまには他分野の論文も読まなきゃなあ、とひとしきり感嘆。まだまだ勉強することがありそうです。