俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

PISS「KYOKO」

謡曲、歌謡曲って、あんたのいう歌謡曲とは一体何なんだ、と問われることがありますが、僕の言う「歌謡曲」の意味は比較的ハッキリしています。70年代末、和製のフォーク・ソングやロック・ミュージックが「ニュー・ミュージック」といういささか意味不明な意匠のもとに再編されつつあったとき、その意匠が明示的/暗示的に含意していた「ギターやピアノを弾き自作自演する歌手こそが進歩的」という俗流の芸術至上主義に対して、近田春夫さんや平岡正明さんがおこなった異議申し立ての営為。その思想的営為が掲げていた看板が歌謡曲。これに尽きます。だから、僕にとっての「歌謡曲」には明確なマニフェストがあり、特定の仮想敵がいました。

もちろん、歌謡曲対ニューミュージックって何年前の話ですかおじさん、というくらい昔の話ですし、当時だって反ニューミュージックの闘士であった近田春夫さんが、粗雑な分類法では「ニューミュージック」にふくまれてしまったり、和製のポップミュージック全般が「歌謡曲」と呼ばれる習慣があったり、自作自演でもムード歌謡っぽい人がいたり、フォークに似せた歌謡曲があったり、事態はそれほど単純明快ではなかったですが、近田さんや平岡さんがそのころなさっていたお仕事は、当時高校2,3年生だった僕にとっては、それまで信じていた図式が180度ひっくり返るような、大きな認識の革命でした。しかもパンクロックと同時期だったのがもう決定的。「王様は裸じゃないか!」という叫び、あれです。

ギターを弾きながら曲を作る若者はみんなアイドル歌手より創造的、というのはいかにもロマン派的な幻想です。ただその対立を単純にひっくり返して、職業的な作詞家と作曲・編曲家が作る音楽のほうが高度で洗練されている、というふうにするだけでは、やはりロマン派的な虚偽への逆戻りです。そのへんは近田さんにしても平岡先生にしても十分に自覚的だったように思います。くだらない二項対立がひっくり返っていっぺんチャラになった、そこからが本当のリスナーとしての人生の始まりだということに僕もやがて気づき、現在に至っている、といったところでしょうか。そのへんの総括も未だにできてないんだから、僕なんかまだまだです。チマチマしたことにとらわれない、もっと自由な人間になりたい。心底、そう思います。

iTunesでは故・中島らもさんが「きょうこ、何かきこえる、きょうこ、外は雨かい」と歌ってます。らもさん、きょうこ、ってどなたですか。

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