あー夏休み~なんか落ち着かない今年の暑中休暇
小説の衰退と反比例するかのようにノンフィクションが盛んになっているようですが、そのかなりの部分は、いわば娯楽小説の代替品としての役割をになっているかに見えます。そういう役割のものもむろんあって良いし、その存在を非難すべきではないでしょう。しかし、そっちのほうを「これこそホンモノ」と持ち上げ、『自動車絶望工場』に代表されるようなルポに難くせをつけるのでは、黙っているわけにゆきません。この場合「おもしろさ」は目的ではなく、あくまで手段なのですから。ルポの古典『世界をゆるがした十日間』(ジョン・リード)にしても、この意味では決して「おもしろい」ものではありますまい。
本田勝一の書く解説から。
で、もう寝る時間だね。疲れちまった。日本語を英訳してた。ほんとはロシア語に訳すといいんだけれど、2~3倍時間がかかりそうで。先方が、英語にしてくれれば自動翻訳で読むからそれでいい、と。修業が全然足りない。
なんか予定が控えている夏というのも、あんまり落ち着かないが、それが終わったら、もう秋の入り口あたりだろうなあ。夏休みったって、ぼくは年中うちにいるしなあ。
ちょっと早いけど、貼っておく。「あー夏休み」。これが流行っていたころは、これを聴きながら女子とドライヴ、という生活じゃなかったけど。
愛のきずな
歴史に「もしも」はないとされるが、もしも、ニコライ二世が絶対専制に固執せず、漸進的な緩やかな改革を受け入れていたとしたら、ロシアの歴史は別のものになっていたに違いない。また、彼が血友病の遺伝子を宿した神秘主義者のドイツ人の皇女を見初めることがなかったとしたら、さらに、ラスプーチンを宮廷に入れなかったとしたら、ロシアの歴史はまったく別のものになっていたに違いない。
それらの「もしも」が全て有り得たとしたら、第一次世界大戦も、ボリシェビキ革命勢力の大波もロマノフ王朝をこれほど劇的な形で滅ぼすことはなかったに違いない。いずれにせよ王朝は崩壊していたかもしれないが、その後に七十余年もの共産主義ソビエトの全体主義社会をもたらすことなく、穏健な立憲君主制度か議会制民主主義の下でロシア民族はずっと健全な歴史を歩んでいただろう。
言うまでもないことだが、歴史にそんなに多くの「もしも」を想定するのは馬鹿げたことだった。それらの「もしも」はいずれもニコライ二世の意思と決断にかかわる人間的要素だった。[…]
もう寝る時間だね。今日は留守番、洗たく、散歩、今度の出張の下準備など。やることは多いが、焦ってもだめだ。ひとつひとついこう。
ぼくは本当は、本を読むなんてことは、他の研究者に比べて得意でもなければ好きでもないのかもな…という気分がよぎるときは、どうすればいいのかな。少し休んで、また始めるしかないな。
わかりやすいいい本は、繰り返し読むに値する。これも、何度も読み返そう。新しい本が次々に出るけれど、予算超過で身動き取れず、そんな時は手元の本を繰り返し読んで、がまんするしかないな。
以下の本はぜひ読みたいが、今月はもう無理だ。
以下の本を読んで、がまんしよう。というかこれすらこなしきれていない。大学院生になって初めて知ったに等しいロシア19世紀末の「銀の時代」。みんな読んでたんだろうな。
Mikky D~むしろ床屋政談力を不断に鍛えるべきではということについて
佐高 […]昭和二年の金融恐慌のとき、最初に東京渡辺銀行が破綻した。破綻によって取り付け騒ぎが起きるのに備えて、大蔵省が緊急措置として二〇〇円札を発行した。しかし緊急性を優先したがために、表面だけ印刷をほどこし、裏面は真っ白だった。これがいわゆる裏白紙幣ですね。なんと、この紙幣を使った人が逮捕される。大蔵省から警察への連絡が行き渡っておらず、警察は裏白紙幣の存在を把握していなかったからです。裏が真っ白なのですから、いかにも偽札らしいですしね。
この話をすると、ピンと来る生徒が何人もいましてね。「本物と偽物はまったく違うものだと思っていたけど、すごく近いものだとわかった」と言ってくれた。
大メディアの報道では絶対にわからない どアホノミクスの正体 (講談社+α新書)
- 作者: 佐高信,浜矩子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/12/21
- メディア: 新書
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これはまだ返却期限は先だけれど、もう一回読み直してから返そう。
前にも書いた気がするけれど、いわゆる「床屋政談」も、経済学や歴史の裏づけをちょっと与えてやれば、知的営為としてはそうそう低級なばかりで終わらないのではないだろうか。ぼくらの全員が全員法学部政治学科で政治を学べるわけではなく、職業的に立法や行政にたずさわるわけでもない。みな生業は別に持ちながら、国民の権利・義務として政治に参加するのだということをまっすぐに見つめるならば、むしろ積極的に床屋政談にコミットし、それをその場かぎりの自己満悦的な勧善懲悪言説の遊戯に終わらせまいとする不断の努力こそ必要なのではないか。
って、いつもそんな大真面目なことばかり考えているわけでもないのだけれど、時局についてまっとうな議論ができるような見識を持つ、というか、自分なりの判断基準を定める、というか、それは人生経験と知的訓練の相互作用で決まってくることで、読書などの知的訓練だけでは机上の空論に陥りがちなのは確かだが、自分ひとりの身に起こる実体験だけでも立派な見識は得られないだろう。そう意味で言うと、「文学」を無用の用として片付けがちなビジネスマンらへの違和を表明した以下の一節なんぞも、ちょっと引いとこう。
浜 […]佐高さんのご指摘との関連で思うのは、今の日本の経営者たちのなかに小説や哲学書も読んでいる人々がいるとしても、彼らはその世界を経営の世界とまったく切り離しているということです。人間と経済の乖離が、一人の経営者の内面でも発生している。経営を語るに、小説の言葉で語ってはいけないと彼らは思っている。企業が存続し、ずっと成長し続け、儲けることがレゾンデートルなのであって、そこに余計な倫理性や哲学性、物語性など取り込んではいけない。そんなことをしては時代遅れだし、プロフェッショナリズムに欠けるし、知性を疑われると恐れている。
小説を読まない、つまらない経営者として何人かの名が挙がっているが、事実かどうかわからないから、それはここでは引かずにおく。優れた社会科学者が小説を読むことを奨める例は何人か知っているけれど、この本のことも参考としてここに引いておいた。
むろん啓発的とはいえ、これはそのときどき読み捨てられる時局的な新書本。歴史なり文学なりの本格的勉強は、また別途。
二人でお酒を~英語ができるできないは人間のできとはあんまり関係がない、しかし
佐高 […] また話が飛ぶようで恐縮ですけれど、私の故郷は酒田市ですが、それと隣接する鶴岡を故郷に持つ石原莞爾[…]に決着をつけるために、『石原莞爾 その虚飾』[…]という本を書きました。そのなかで触れたのですが、石原は満州国にエスペラント語を採用しようとしていたんです。そこには英語への強い反発があった。英語ができる、できないで人間をはかるなんてとんでもないと、石原は書き残しています。エスペラント語を共通語にして、満州に五族協和の右翼的ユートピアをつくろうという構想は、大日本帝国の命運とともに消え去り、現地の人に日本語を押しつけた負の歴史が残りました。
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この種の本をどっさり借りてきては外国語中毒の緩和のために読む、するとこんなことが書いてあって、拾っておく。
エスペラントについては冬に書いたけれど、時間があればやりたかったし、今でもどこかでやってみたい気持ちがあるのはやまやまだ。
英語ができるできないで人間をはかるなんてとんでもない、というのはまったく賛成だ。ぼく自身はそういう基準でむしろ利得を得た側に、どっちかっちゃあ入るのかもしれないが、それとは別に、英語ができるできないで多くの子供や親がヒステリックな心理に追い込まれているのは、心が痛む。
小学校から英語が必修化、大学入試の英語は民間テストで代用、と、いろんなニュースを聞くたびに、地方や貧困家庭の子が早々に人生の敗北を決定づけられるような方向に転がって行かないでくれと、切に願わずにはいられない。
そして、ここのところが難しいのだが、現に英語ができるようになりたいと切望する子や親に、「英語ができるできないは人間の価値に関係ないですよ」とは言えない。エスペラントが共通語となる国際社会の実現は、いまのところあまりありそうになく、英語が事実上のエスペラントと化している状況は、急には変わらないだろう。
英検もTOEICも、学校で習う英語、あるいはこれはという入門書で説かれている基本を前向きな気持ちできちんと身につけ、あとはあらゆる機会をとらえて伸ばす努力をすれば、かなりの線まで独学で行ける。高価な語学学校に通えるかそうでないかは大きな要因だろうが、けっして通えないからどうせ自分はだめだ、という方向で考えないでほしい。
いい参考書はネット通販ですぐに入手できるし、読む/聴く素材だってあり余るほどあふれている。ラジオだっていい番組をやってる。あとは、自由時間を主体的にそっちに振り向ける決意があるかどうかがカギだ。いくらいい教師でも、そこまでのコントロールはできないから、これは本人の問題だ。いくらでも独学の道はある。
クラウド・ナイン
cloud nineとは「天にも昇る心地」のことで、「1950年代にラジオ番組'Yours truely, Johnny Dollar'でポピュラーになった;米気象庁が1つの雲を9タイプに分類した最上層部」とリーダーズにはある。
ところが、オンラインの辞書を引くとダンテ『神曲』に由来する、と。へえそうなの。ただこちらも初出は1959年とあるので、ラジオ番組に由来するという方が説得的な気がする。
むかし、テンプテーションズの『クラウド・ナイン』というLPを持っていた。まだどこかにあるはずだが、もう30年くらい見ていない。当時は歌詞まではわからなかったので、cloud nineの意味もわからなかった。当時はたぶん、ふつうの英和辞典を見たくらいではこんな語はみつからなかったはずだ。
当地は11日連続真夏日? しかしこんなに暑いのも今日くらいまでだろう。内地の皆さんには申し訳ないくらいだが、猛暑日と報じられた北海道も、午後8時過ぎには22℃ほどの涼しさで、夜中まで蒸して眠れないなんてことはない。TVニュースでは東京から北海道に避暑に来た観光客が「東京より暑い」と言っている様子が流れたが、日が暮れるとこんなに快適で過ごしやすいのだから、避暑に来たのはまったく間違っていない。きっと冷房なんかなしでも、ぐっすり眠れるはずだ。
昨日、ローウェル・フルスンのCDを中古店で見つけるが、たった千円の余裕がなくて我慢。
恋心~明日も猛暑日の北海道で、もう冬のことを考えている
水あたりでおなかをこわし、物も食べられず、水分も余計に取れない、さんざんな一日。こんな日の北海道に限って34度もあったりする。
明日は猛暑日の予報で、もうそれを過ぎると28度、29度がせいぜいだろう。そうなると内地のみなさんには申し訳ないくらいさわやかで、日暮れごろ風呂の窓なんか開けていると寒いくらいだ。
昨日から明日にかけてくらいの猛暑だが、かといって窓を開け放って寝たりすると、最低気温が14度くらいだから、下手をすると風邪をひいてのどをやられてしまう。今夜あたりはひょっとして大丈夫かもしれないが、やはり窓は閉めて寝よう。
なんだかふだん人と交わらずに一人でいるから、人付き合いがとても難しい。気にしなければいいのだが、ぼくもそうとうヘンな間違いの多いことを言ったり書いたりしているのに、周りが合わせてくれているということなんだろうな。
大学院で他の学生より年長だったなんてことはもう昔のことで、そのころの後輩をつかまえていつまでも先輩風を吹かせていてはバカだ。それでもあえて「後輩」という言葉を使うならば、その後輩が国立大の准教授をしていて、そこに訪ねて行くとこれまたむかしよく一緒にあそんだ古い知人が来ていて、なんだか一瞬、20年くらい前に戻った気もしたのだけれど、錯覚というやつね。もうふだんは、ぼくは大学とも学問ともあまり接触のない、田舎の住人にすぎない。
語学力だけは自分のもので、どこに所属があるとかないとかとは関係ない気もするが、ときどき、世間知らず丸出しの発言をしている自分に気づいて。まあ気にするまいて。東京や札幌のインテリゲンチャと同じことをしようとしてもできるわけがないので、気に病んで悩んでたらそっちがバカみたいだ。
先日も書いたが、あとふた月すれば、もう当地は冬の心配を始める。たしかに当地の秋のわびしさったらない。でもそれを過ぎれば、あとはまた、しんと静かな冬。
Koko
「ビバップ」って言葉は擬音語で、「バップ」「ビバップ」、あるいは「リバップ」って呼ばれてたこともありました。で、こういった擬音語っていうのは、どの言語でも一緒ですが、基本的には相手を馬鹿にしているっていうか、揶揄する感じが強い言葉ですよね。なんたって最初は「チャイニーズ・ミュージック」扱いですから(笑)。ところが、そのバップがアンダーグラウンドでじわじわと人気を伸ばしていって、もう少数派のものであるっていうふううに考えることが無理になってきたところで、アメリカのメディアはこれに「モダン・ジャズ」および「クール・ジャズ」っていう名前を与えてですね、当初はスウィング・ミュージックに対立するものと見なされていた「バップ」を、以後、「ジャズ」の正統を担う存在として、アメリカの音楽史のなかに組み込んでいくことになります。
「バップ」とか「モダン・ジャズ」になるためには、チェット・ベイカーとかデイヴ・ブルーベックとかっていう、極めて白人的にバップ・スタイルを消化したミュージシャンの存在を経由する必要があった、ということです。
東京大学のアルバート・アイラー : 東大ジャズ講義録・歴史編
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なんでもいいが、北海道も今日と明日は暑くてかなわない。34度、35度といった気温で、夕方も思ったほど涼しくならない。熱帯夜ということはないだろうが、年に数日あるかないかの、寝苦しい夜になるだろう。
生活を切り詰めるのはいろいろ工夫の余地があり、たとえば嗜好品を止めるというのはもっとも有効な手段だ。院生のころ、寮で一緒だった工学部のすずきさんという院生が、「ビールを飲む人は財布の減り方が速いそうですね」と言っていたのを思い出すが、ビールをとっくにやめた今も、代わりにノンアル飲料をがばがば飲んでいた日には千円札がどんどん飛んでゆく感じだ。だから、これも、完全にやめずとも、ほどほどにしておこう。
札幌での夕食の席で、お茶のたぐいは何がおいしいかという話になり、そのときは感銘を持って聞いていたはずが、今ここに書き出そうとするとあまり思い出せない。カモミール茶というお茶の話だったような気もするし、大学の非常勤研究員室の外の談話用のテーブルには、また別のお茶のティーバックの袋があった気もする。
水出しコーヒーというのが自分としては気に入っているのだが、地元のスーパーなどで置いてくれないので、常時飲むというほどに至っていない。むろん通販で簡単に取れるが、通販もちょっと油断するとえらい浪費のもとになる。ノンアル飲料を止めるために、かわりになにか飲もうというのであって、それがまた浪費につながってはなんにもならない。
こんなに暑いのも、むこう数日だけのことだろう。あとは30度に達する日がこの夏何日あることか。北海道の27度、28度は、湿度が低くて、内地の人には天国みたいなものだ。いつだかまだ勤めていたころ、その地にしては暑いという日があったけれど、研究室の窓を開けていると、キャンパスで開催中の学会に来た九州訛りの教授らしい人が、「なんにも暑くなかですよ。こんなにさわやかではなかですか」と言っているのが聞こえてきたことがあった。
洋服店でズボンをひきとる。