暗い港のブルース~無名校で学んだ外国語
「お父さんはどうしても文学は困るというんだが、ほかになにか方法はないものかね。」
中尉はうちの財政上のことからいろんな話をして、僕に再考を求めた。
「そんなら語学校へ行ってもいいです」
僕は大学が駄目ならこうという、僕の第二案を打ちあけた。
「そりゃいい、それならきっとお父さんが賛成する。よし不賛成でもきっと僕が賛成さしてみせる。」
中尉は、僕が語学校と言いだしたので、急に元気づいて賛成した。
当時陸軍では、ことに田舎の軍隊では、再帰熱のように時々起こる語学熱がはやっていた。陸軍大学へはいれなくっても、多少語学ができさえすれば、洋行を命ぜられたり要路につかせられたりして、出世の見込が十分についた。森岡中尉も、やはり幼年学校出身で、フランス語をやっていた。そしてそのフランス語を大成さすべく、しきりに東京へ出て語学校へはいりたがっていたのだ。礼ちゃんの花婿の隅田中尉というのも、これは中学校出身で英語がお得意なので、やはりなんとかして東京へ出て語学校へはいりたいと言っていた。父も、以前にはフランス語をやったりドイツ語をやったりしていたが、そのころは新しくまたロシア語をやりだしていた。
いやなに、枕元に出しっぱなしの本の一冊で。いつか通読したという記憶もなくて、パラパラ見てる。フランス語をやったおかげで息子は社会主義者になってしまったと父親は嘆いた、との記述も見える。
フランス語は、陸軍幼年学校のクラス分けの都合か何かで、強制的に学ばされたらしい。さいしょは、ドイツ語志望だった、しかしもともと語学好きな大杉は、たちまち熱中した、といったこと。
これ、でもなんでだいたいの内容を知っているかと言うと、子供のころ、不良少年列伝のような本を読んで、その中で紹介されていたんじゃなかったか。懐かしいなアレ。
それにしても、「語学校」の響きがうらやましい。のちに外国語大学となるところだろう。もはやどうでもいいことだが、高校のころ、通信添削の志望校欄に、その種の学校の名を書いていたが、お話にならない、といったコメントがついて帰ってきた。
その後も、外国語学部、というところで学んだことはないが、別にそのことを引け目に感ずる必要はない。そういうところへ行けば立派な指導が受けられるのは確かだが、そういうところへ行かなければ立派な指導が受けられないか、というと、それはちょっと違う。
何もかも他人がお膳立てしてくれなければ自分はいっさい勉強しない、というのではあまりに情けない。そういう立派な学校で学んでいる者らをしり目に、闘志を燃やしながら無名校で学ぶ、というのも悪くないもんだ。
スメルジャコフとかヒースクリフとか、そういう文学的形象の気持ちがなんとなくわかる気にもなる。なんか、そういう人生だった、この自分。今となっては、懐かしい。
蟇の子もスメルジャコフも歌いいむ雪が奢ればみな悲歌なるを