俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

愛の終着駅~相変わらず新聞のことを考え続ける自主的な冬学期

「研修生の間は、車を買わないつもりです」

「それがいい。モスクワは公共交通機関が発達しているので、それで生活ができる。それから、買い物も外貨ショップではなく、極力、一般の店ですることです。もちろん無理をする必要はない。ときどき外貨ショップを利用することは構わない。ただし、一般の商店を利用して、どの物資が欠乏し、何を買ったときに喜ぶか、皮膚感覚で知っておくことが重要です」

「わかりました」

「それから、ロシアの高級紙だけでなく、夕刊紙や生活に密着した記事が載った雑誌にも目を通すことです。また、ロシアのテレビを見る。そこから普通のロシア人がどういうことで喜び、怒るかを知る。これは実際にロシアで生活しないとわからない」

 

プラハの憂鬱

プラハの憂鬱

 

  ほーら、やっぱり新聞なんだよ。と言いたいのだが、一方ではロシアで生活しないと…とも言われているので、かつてのように、夏休みはロシアに行かせてもらって、あとはこっちで新聞を定期購読して…という生活がずっとできればよかったのだが、もうそれは遠い昔のことだ。いや、それくらい新聞、読みたかった。

 お金さえあれば、洋書店で手配して、ロシアの紙の新聞、届けてはもらえる。しかし、それを継続して読む、となると、これが存外難しい。ぼくはほとんど思った通りのことができなかった。

 たしか最初は勢い込んで『イズベスチヤ』を契約した。高かったが、お給料をもらうようになって、お金は何とかなった。しかし、大学院を途中でやめての赴任で、とにかく、ろくにそういうものを読んだ経験もなかったから、ロシアから新聞が届く、となっても、習慣として読めないのだ。読むとなると、辞書とメモを用意して2時間デスクにかじりつく、という形にならざるを得ず、その2時間を捻出できなかった。

 一般論だけれど、原書を習慣的に読むとなったら、英字なりロシア語なりの新聞雑誌のたぐいは、そう毎日は読めるものではない。卑近な例と言ってよいかどうか、茂木健一郎氏の話を以前ここで取り上げたけれど、彼が高校時代にやったのは英語の書籍を数十冊読むことであって、けっして英文紙誌の時事的な英語に精通していた、とは書いていなかったように思う。

 研究者を志す場合、やはり大きな大学に属していた方が有利、というのは、そういう面からも言えて、もっぱら原書を読むような研究をしている場合でも、思い立ったら学内の図書館などで、簡単にそういうものが閲覧できる、ということがある。これなら、わざわざ年に数万もの出費をして自前で新聞をとらずにすむ。気が向いたときに、あるいは必要に応じて、大学が取っているものを利用できる。

 むろん、今はネットで新聞を読む時代なんだろうけど、わからないのは、論説、書評、といった、本当にじっくり読ませるところまでネットで読めるのかどうかということ。読めるんだろう。しかしそれにはやはり高い金を出して会員になる必要があって、それじゃ紙で読むのと大して変わらなかったりしないのだろうか。

  小学校四年生の秋の日の何かの授業で、担任だったうじいえ先生が、「コンピューターが発達したら、新聞配達はなくなります。朝起きたら自動的に届いているようになります」とおっしゃったことを、今でも鮮明に覚えている。そのとき先生がどんなことを念頭に置いていたのか、それはわからない。今たしかにそうなりつつある、しかし、ロシア人の生活に密着した夕刊紙のたぐいは、どうなんだろう。

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 新聞のたぐいを読む自主ゼミ、いつかの段階であってもよかったと思うが、それも今になって思うことだ。

 北海道で生活し、勉強を続けることの難点は、距離。札幌に住んでいられるうちはともかく、みなばらばらになってしまうと、勉強会のたぐいもまず企画できないし、参加もできない。東京の英文学者さんと話していたら、平日は学内業務に徹し、土曜はほぼどこかで研究会、とおっしゃっていた。それは、ここでは無理というものだ。もちろんバンドの練習すらネット上で済ませる時代だから、スカイプを利用した読書会など、どこかでやっているのかもしれないが…


懐メロカラオケ 「愛の終着駅」 原曲♪ 八代亜紀