恋のサマー・ダンス~へその緒あるいは盲腸としてのニューアカデミズム
坪井はモースに刺激されて、理学部の動物学科に入り、人類学をこころざした。ために、この人類学教室は、動物学科に属している。これに反し、良精は解剖学から骨格に興味を持ち、人類学にふみこんだ。研究方法のちがいも出てくる。そこをはっきりさせておくべきだろう。良精はつづけた。
「……この分野を二つに分けるべきだと思う。ひとつは形態的人類学。人種相互間、人類と動物の間、その関連を解剖学、生理学、病理学の面より調べるもの。医学界にとっても、まだまだ考究する余地のある方向である……」
[…]
「そしてもうひとつは精神的人類学と称すべきもの。未開人種における歴史、社会、心理、宗教、言語、工芸など、また、遺跡や発掘工芸品を研究することである。これも広い前途を持っている。ベルリン大学には、この二種の講座がもうけられ、それぞれ研究がなされている……」
現在の自然人類学と文化人類学の区別を、はじめて提唱した。ここで良精は追悼の辞を結ぶ。
「……坪井博士は、形態的人類学のほうの不充分をみとめ、私にもそれに関する論文を書くよう求めていた。このバランスをたもって人類学を進めるのが、博士の遺志だといっていいと思います」
メモ代わりに。
自然人類学/形質人類学と文化人類学/社会人類学は違う。これは当然のことなのだが、あるところで専門家と話をしていた時、ぼくが不用意に両者を混同した話しかたをしたのだろうか、ひどくきつい口調でたしなめられたことがあった。
ぼくが人類学のことを知っているなどとは到底言えず、せいぜい80年代に流行した書物を多少熱心に読んでいたというだけのことなのだが、その方面は自由な議論が許されるような錯覚をしていたのだろう。ぼくのような本を読んでいるだけの人間がプロの前できいた風なことを言えば、そりゃあプロは不快そうな顔をする。でもって、そっち方面への変な幻想は吹き飛び、ずっとおとなしくしている。
だから、この部分も、ぼくの知的形成のへその緒というか、盲腸というか、そういうものとして感慨深く読めるというにすぎないんだが、まあ引いておく。
こっち方面というと、井上靖『あすなろ物語』を読んでいた時に、纏足や刺青の研究を志す風変わりな医学生の話が出てきて、ひどく面白かった記憶が強烈で、でもぼくは高校に入ると同時に文転しちまったから、そういう人生は歩むことはなかったわけで、でもそうやっていちいちわが身に引き比べて書物を読む習性はもうほんと、どうにかならんものだろうか。
今日は290ページほど。早々に読んで、返却し、しばらく図書館通いを中断せねばならない。語学徒生活継続中で、ほんと、自分のロシア語のなまくらぶりに途方に暮れつつ、単語帳をひたすら音読。以下のようなものまで出てきて、これも読みだすと止まらない。
Tobacco Road (English Edition)
- 作者: Erskine Caldwell
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それからこれも。とにかく、これらの本。ロシア語を専攻しているつもりでありながら、こうした本も、マジで読むつもりで買い漁っていたのは本当のことだ。それで矛盾とも何とも思わずにいられたのは、ひとからたまに不思議がられるけど、たんなる世間知らずという以外にも、外国語の小説を読むのが、ほんと新鮮で面白かった。初発の動機があまりに遠い遠い昔のことにならぬうちに、読めるうちに読んでおきたい。気の利いた人なら、このへん、20代で卒業してるんだろうか。
Coming Up For Air (The Complete Works of George O)
- 作者: George Orwell
- 出版社/メーカー: Secker & Warburg
- 発売日: 1999/09/07
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10年前の今日をふいに思いだした。ドストエフスキー『未成年』の工藤訳を読み終えたんだった。どこかの、喫茶店。