俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

ジョン・ケージ「4分33秒」

ウォークマンで好きな音楽を聴いているうちに、ふと眠気に襲われてウトウトしてしまう。はっと目覚めると音楽は終わっていて無音状態のテープが回っている。しかしそれは本当の無音ではなくて、屋外の風の音、こずえがそよぐ音などが自然に耳に入ってくる。今、半覚半睡のまま自分が聴いていたのはひょっとしてジョン・ケージ4分33秒」ではなかったのか…今、現物が手許にないんですが、たしか細川周平ウォークマンの修辞学』(1981年、朝日出版社[エピステーメー叢書])にそんな記述がありました。

ジョン・ケージのことなんか僕はよく知りませんが、現代音楽に興味を持つ前から「4分33秒」のことは知っていました。ピアノの前でピアニストが何もせず4分33秒イスに座っているだけ、という「曲」です。たしか山下洋輔さんがどこかでこれを「演奏」したときは、なんの予告もしなかったのでオーディエンスが騒ぎ出し、4分33秒もたせることが出来なかった、とエッセイにお書きになっていませんでしたか。

「行間を読む」などという言葉がありますが、「行間」はまさに「行」が複数あることが大前提。それらの展開なり移ろいなりの「関係」を言ったものであって、「行」と「行」との間の空隙そのものを取り出してくることは論理的に不可能です。あたかも「ドーナツの穴だけ食べる」ごとくに、その論理的不可能性に挑んだのがこの曲。まったくの無音というものはありえないので、客席のざわつき、咳払いなどがどうしても聞こえてきますが、それも含めての「4分33秒」です。ベルグソンのいう「純粋持続」そのものを体験すること。

あるいは「文脈」などという言葉もありますね。以下に紹介する映像は、フルオーケストラ、指揮者、満員の聴衆、TV中継といった制度的「文脈」を人為的に用意した上でこの「4分33秒」を「演奏する/鑑賞する」というスリルいっぱいの試み。「演奏」後の割れんばかりの拍手、まさに興奮の渦です。この「曲」をフル・オーケストラで、という着想自体がほんとうに素晴しいですね。何度も観ましたけど、まだ飽きません。