非俗楽の誘惑
実は若いころ(高校時代)、あまり読書をしませんでした。
小学校高学年から中学二年ぐらいにかけてかなり読書したのは確かですが、ドストエフスキー『地下室の手記』と太宰治の『ダス・ゲマイネ』だったか『虚構の彷徨』だったかを読んでそれらをつなげ、さらに一級上の物知りの先輩が教えてくれるニーチェやサルトルのことをきわめて単純な形で頭に入れてしまうと、もう何もかもわかったような気がしてしまったのですよね。で、その後急速に文学熱が冷め、いったん冷めてしまうともういくらがんばっても谷崎もトーマス・マンも歯が立たなくなり、それっきり。そのとき抱え込んだなにか大きな欠落感は、後になってからいくら努力しても埋め合わせがつきません。
で、何を読んでいたかというと、音楽雑誌ばかり読んでいたような記憶があります。それらを読む中で、今で言う「レポート・論文の書き方」を知らず知らずに習得していったという。北中正和、日暮泰文、鈴木啓志、高地明、高沢正樹、竹田賢一、平井玄、あと誰がいたろうか、その他たくさんの評論家から多くを学びました。なんというんでしょう、形式的な論理と、個々の書き手の「口癖」の中間あたりの、<修辞>としか呼びようのない言葉の使い方。ローリング・ストーンズにおける政治という場合、たんに右とか左とかいうのではなく、次にどんな傾向の音が流行するかを本能的に察知する能力をさしてそう呼んだり、芸術/芸能と社会との関係は単純な関数関係にはなく、その間にはさまざまな夾雑物があって、テクストからそのまま歌い手/書き手の社会的意識を抽出してこようとするような試みは噴飯ものであるとか、そういう理屈の運び方が血となり肉となって、のちに大学というところでレポートなり論文なりを書く際におおいに役に立ったという気がしています。
学校にはクラシック音楽の愛好家もいたはずですが、ぜんぜん交流はありませんでした。あったとしても、僕らは「俗楽(ポピュラー音楽)のほうが普遍的価値があるんだぜ」とガチガチに理論武装していたので、実のある交流にはならなかったでしょうね。
今になって、そういう修辞を駆使した音楽評論は自分の好きだったポピュラー音楽の占有物ではなく、むしろクラシックや現代音楽の分野でさかんなのでは、ということに気づいて、やはり自分は所詮子供だったのだな、と痛感しています。
今、手元にある本は白石幸紀編『現代音楽 CD×100』(PARCO出版、1995年)。いまや押しも押されぬ小沼純一さんをはじめとする8人のライターが現代音楽の100枚のCDについて書いています。自分はクラシックや現代音楽は聴かない、はずなのにこの本はやけに気になって購入、熱心に読み、当時まだアマゾンもなかった時代、さかんにCD屋さんに注文を出すようになりました。最近読み直してはっきりと気づきましたが、音楽を語る情熱と技術にポピュラー音楽と非ポピュラー音楽の区別はありません。これだけ面白く書いてあると、ギャビン・ブライアーズってどんな音楽やってるのか、コンロン・ナンカロウってどんな曲を書くのか、メレディス・モンクってどんなパフォーマンスをやるのか、知らずにはいられません。
その後ばたりと忙しくなり、しばらく忘れていましたが、最近また、若いころは「聴かなくていいや」と思っていた「非俗楽」が心のドアをノックします。しかも今回は、伊福部昭や芥川也寸志が、やけに生々しく、身近に感じられます。歳もとってしまったし、もう手遅れなんだろうか、と思いながら日々をすごしています。