俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Round About Midnight~よき床屋政談は経済と世界史を連動させる

[…]しかし、日本が支払った代価は大きなものでした。輸出産業が直撃を受け、関連企業にも影響が及んで円高不況に突入します。

 日銀は、国内市場の活性化(内需拡大)のため金利を引き下げますが、利子のつかなくなった銀行預金が引き下ろされて株式や土地に投下されました。バブル経済の始まりです。

 

経済は世界史から学べ!

経済は世界史から学べ!

 

  これはいい本だ。視野が広い。手あかのついた概念が、歴史的裏付けとともに洗い直され、清新さをとりもどす。バブル経済ということばは「景気がよかったころ」の意味で決まり文句のように使われて、いい歳をした人までが「高度成長」と混同していたりするが、あくまで1985年のプラザ合意→円高誘導→輸出産業に打撃→内需刺激のための利下げ→株・不動産への資金の集中による資産インフレのことを指す。この程度のことは押さえておきたい。これを踏まえていれば、同じ床屋政談でも最強の床屋政談ができるだろう。

  こんな個所も悪くない。

 民主党のウィルソン大統領はグローバリズムの理想を信じ、連邦準備制度理事会FRB)設立を認可するなど、ニューヨークの金融資本と強く結びついていました。はじめはアメリカの伝統的なモンロー主義に従って中立を宣言します。しかし、連合国の一角であったロシアで革命が起こり、ドイツと休戦します。余力のできたドイツ軍がフランスに攻勢をかけたため、連合国の勝利が揺らぎます。

連合国が敗北すれば、彼らが発行した国債は紙くずになる…」

ウィルソンが参戦を決意したのはこの時です。[…]

  とか、引用しているときりがない。ギリシアに端を発するユーロの危機のことも、これを読むとよくわかる。紙幣の起源も極めて具体的。予備校の先生らしい、幅広い勉強ぶりとわかりやすい語り口がよく出ている。

 大学で教科書として使うにはちょっと…だろうけど、講義の〈脱線〉のネタを仕入れるにはもってこいの本だ。概して、講義なり授業なりの〈脱線〉には、教える側の知性の幅がにじみ出る。歴史を経済の軸で理解するというのは成熟した上質の知性のみがなしうることかもしれないが、この本でその一端は垣間見ることができる。もう教壇に立つ目算もない自分だが、こういうものは読む。アタマを錆びつかせたらそれまでだ。読んで損はないんじゃないか。(注記:アマゾンでは辛いレビューが目立つが、いろいろ難がある点を割り引いても、役立つ部分は多いと思う)。

 今日もマイルスのプラグド・ニッケル。この時期でも北海道はまだ寒いが、室温はだいぶ上がった。その空気をふるわせてわがJBLが鳴る。トニー・ウィリアムズのタイコが圧巻。これを眠らせておいちゃあ音楽の神様に悪いので、しばらくは毎日鳴らそう。

 これから語学。とにかく英語とロシア語、あまり欲張らず、現状維持プラスアルファくらいを目指して。

 

Highlights From Plugged Nickel

Highlights From Plugged Nickel

 

 


Miles Davis - Round About Midnight.wmv

青春にオーレ~『ロンドンで本を読む』は楽しい本だ

 さてどこから始めようか。おそらく初期のエッセイ、「言語一般および人間の言語」がいいか。ここではベンヤミンは「言語の出番」を予想し、認識論的=社会的諸問題を、言語という母体の内に置くことを先取りして行っている。このことは、アングロ=アメリカの論理実証主義からデリダ派のデコンストラクションに至るまでの二十世紀思想の多くを新たに方向づけることになるはずであった。ベンヤミンを深く特徴づけているのは、人間の話し言葉発話行為を人間の楽園失墜と結びつけていることである。言葉と世界とが同語反復的に一致していた「アダムの言語」から切り離されたことが原因となって、抽象化の必要性と可能性が、また、文法に則った、文法を通じての、隠喩と判断の必要性と可能性が生じる。そこからは、バベル(言語の混乱)のドラマと、それ以後の多重言語の状態もまた同様に発生するだろう。

 

ロンドンで本を読む  最高の書評による読書案内 (知恵の森文庫)

ロンドンで本を読む 最高の書評による読書案内 (知恵の森文庫)

 

  『ワルターベンヤミン著作選集』第一巻についてジョージ・スタイナーが書いた書評、「エヴァがアダムを誘惑した時、いったいどんな言語で誘ったのか?」の一節(土岐恒二訳)。言語論的転回、というのはぼくが二度目の学部生のころ、言葉としてはお習いしなかったが、必修の「言語論」などはほぼその線での講義だったから、上の一節はよくわかる気がする。

 ではその二度目の学部生のころ、ベンヤミンのことは知っていたのかというと、ドイツ人の先生の独語会話の時間に「ベンヤミンを知っているか?」と先生が口にして、誰も答えられなかったのをおぼろげに覚えている。ぼく自身、名前は知っているけど…程度だった。

 もう本当にあとになってから(8年前?10年経ってない?)、以下の本が出て、むさぼり読んだんだった。これも決して平易ではないが、ああ、そうか、そういうことか、と呑みこみながら読んだ。これは面白かった。

 

名前はしかし、言語の究極の叫び(Ausruf)であるだけではない。それは言語の本来的な呼びかけ(Anruf)でもある。このこととともに、名前という姿で現れているのは言語の本質法則である。その法則によれば、自分自らを語り出すことと他のすべてのものに呼びかけることは、同じひとつのことなのである。

 

  ただ、それで興味を持って、ちくま文庫の『ベンヤミン・コレクション』をそろえた、そのあたりでそっち方面は中断したまま。本の置き場がなくて、老母の部屋のカラーボックスにこれらの本を並べてあるので、いつでも手に取れるけれど、ドイツ語はもはやぜんぜん読めないし、まあ、いろんな意味でゆとりができたら、だろうなあ。ずっと勤めていたら、上記の本をネタに、日本語、英語の文学作品いくつかを俎上にのせて、紀要に作文を数編…って、そんな甘いこと考えていたころもあったのが、今となっては懐かしいというか恥ずかしいというか。

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

 

  で、『ロンドンで本を読む』は楽しい本だ。買ったままずっと読んでなかったけれど、読まないのは惜しい。イギリスの新聞のたぐいに出た書評をえりすぐったもの。クンデラエーコナボコフ紫式部遠藤周作北杜夫村上春樹、そしてこの書評集の編者である丸谷才一自身など、取り上げられている顔ぶれだけ見ても面白いが、一本一本が充実したエッセイで、無味乾燥なものは一つもない。

 北海道は明日まで寒いが、そのあとようやく春らしくなってくれるらしい。昨夜の雪はほとんど溶け、午後のにわか雪も春のぼた雪。年度替わりで、新年度に関するメールなど来る。春休みを利用して海外の学会に行ってる人からも。

 ↓これは有名なヒット曲を下敷きに、譜割りをちょっと変えて工夫したのだろう。ぼくもこんな気分。ペンを6本まとめ買い。


白い恋人コンサドーレ10周年

厄落としのマイルス・デイヴィス~not worth a plugged nickelとは「一文の値打ちもない」ということ

K そうそう、よく覚えてる。のんびりした時代だった。バラック建ての生協食堂に行けば、脇の石炭小屋に雪が吹き溜まり、タバコだって、一箱ではなく数本ずつ分売していた。あの授業、高松さん、彼は授業が半分方すすむと、必ず一服吸うために休憩する。教卓に向かい、銘柄はたしかホープだった、学生が見守るなかを実に美味しそうに紫煙をくゆらす。ぼくは早とちりして、先生が喫んでるわけだ、学生もいいんだと思って、教室後部の席で、一本とりだして火をつけたとたん[…]

 

夕べ―ヴェーチェル

夕べ―ヴェーチェル

 

  本州に渡った後、ぼくはもっと南下して東京を目指そうと思っていた。

 思っていたが、予定より一年早く大学院を受けようと思ったとき、あれは秋も深まったころだったか、今から思い立って受けられるのは札幌北区のあの大学だけらしい、となって、前に卒業した大学の書類を大あわてで取り寄せて、出願した…いや、そうじゃなく、東京の複数の大学にも往復はがきで過去問の閲覧の可否など照会したのだ。が、まともに返事をくれたのは東京外大だけだった記憶がある。それでいろいろ思いあぐねて、ああいう選択になったのか。

  今、勤めもやめてしまって、それでも年数回、研究目的で三つ目の母校を利用させてもらっているのは、何ともありがたい限り。しかし、知っている先生もどんどんいなくなってしまうし、やがてはまた、いつかのように、どこの大学にもつながりをもたない〈母校喪失者〉になるんだろうな。

 まだ疲れが取れない一日。『自習ロシア語問題集』は23課まで。

 

自習ロシア語問題集

自習ロシア語問題集

 

 

 

自習ロシア語問題集 (1982年)

自習ロシア語問題集 (1982年)

 

 

 これも札幌で編まれた問題集なのだけれど、大学院生として入ったために、教養課程のロシア語を担当されている先生がたとはほとんど接する機会がなかったのが残念だ。外部の人には不思議がられるが、そうした先生がたは、研究室も地下鉄一駅ぶん離れたところにあって、学部や大学院教育にほとんどまったくタッチしていないのだった。その意味で、完全に母校にもできないまま、あの大学を去ったのも事実だ。

 マイルズ・デイヴィスの『プラグド・ニッケル』ものは、昨日書いた通り、完全盤を入手すれば全貌を知ることができるが、先立つものがない身としては、いつか札幌で買った『ハイライツ』というのを繰り返し聴こう。聴くのは、実に20年ぶりくらいか。これだけでも、この時期のマイルス一門の若い衆のぶっ飛びぶりは充分わかる。持ってるんだから聴かない手はない、そんな一枚。売り払うなんてとんでもない。聴いて聴いて聴きまくって、墓場まで持って行きたい。厄落としにはもってこいじゃねーか。

Highlights From Plugged Nickel

Highlights From Plugged Nickel

 

 

 

Highlights From Plugged Nickel

Highlights From Plugged Nickel

 

 

 

  Macに戻るかどうかは、いろいろ調べて、自分で決める。ひとまずデスクトップ機は動いているし、Surfaceもあるので、あせる必要はない。とりたててひとに相談はしないつもりだが、動画のたぐいは参考になる。↓では同じマシンでWindowsも立ち上がっているが、自分はそういうことをやるスキルはないので、技術上の冒険はせぬつもりだ。

 春分の日を過ぎて、夏至までがヤマ場。


Is an old Mac Pro Worth It in 2015? Watch this Review.

乾湿式コピー機のこと~隣の部屋ではトニー・ウィリアムズがマイルスをボッコボコにしている

Q 最初に出会った処女詩集だったということですね。

K だから、あれは何十年も書棚にありました。丁度、学部に移ったとき、川端香男里(当時は山本 香男里)先生が、二十九かそこいらだったでしょうか、北大に赴任してきて、ぼくらは当時の青い液のなかをくぐってでてくるコピー・テクストで、世紀末のロシア象徴派の詩の講読がおこなわれたのですが、これが愉しかった。香男里先生は朝が早く、アレクサンドル・ブロークの詩を美しいキリル文字筆記体で書き写してきて、それをコピーするので、手伝ったものでした。若いアンナ・アフマートワを最初に認めたのが、ロシア象徴派の巨匠ブロークですからね。ぼくはモスクワ派よりは、レニングラード派の詩に最初にふれたわけだった。

Q なつかしい。あの青い痣みたいな色に染まった、乾湿式コピイ機でしょう。最新兵器でしたね。手書きだったし、まだヘルメスの重量級のヘビーな、毛むくじゃらしたフォントも、手に入らなかった時代…。で、英文の必修の文学史の授業に出てみると、ほら、彼、ダレルの訳者だった、そう、高松雄一先生、黒板いっぱいに綺麗な書体でイギリスのロマン派の詩を書く、それをノートに書き写した。

 

夕べ―ヴェーチェル

夕べ―ヴェーチェル

 

  この大学に自分も数年いたけれど、ほんの5年違うだけでも大学の中はそうとう様子が変わるので、ましてやこの時代のことはぼくにはうかがい知るすべもない。コピー機の発達というのも時代を反映していて、ぼくが最初に行った大学ではやはり青い液のなかをくぐって出てくる式のコピーしかなく、きっとそのころまでは、ロシア語や英語の詩の演習でもそうした授業風景があったかもしれない。当時はぼくは文学部というところには縁もゆかりもない、ただのふつうの(経済の)学生だった。

 三年連続で、恩師たちの最終講義に出ることが続いた。いずれも、長い教壇生活を成功裏に終える先生がたで、自分もその晴れやかさを少しおすそ分けしてもらって帰ってきた。そうしてそれをたましいの糧に、長い一年を何とか乗り切る、そんな日々だった。

 で、自分がどんだけそうした先生がたの教えからずれてるかということも痛感させられる一面もあるわけで、万年床でSurface Pro 3を操作しつつ、廊下をへだてた私設研究室(4畳半)では、1965年の12月のプラグド・ニッケルでのマイルス・デイヴィス。御大をあおるようにして、まだ小僧っこのトニー・ウィリアムズがボッコボコにタイコをたたいている。

 

Highlights From Plugged Nickel

Highlights From Plugged Nickel

 

 

 これはたしか完全盤がCD8枚組だったか10枚組だったか7枚組で出ているはず。勤めているとき、買わなかった。今じゃとうてい買えない。でもこの『ハイライト』だけでも、そのすさまじさに圧倒される。これと重複しないCDも出てるみたいで、欲しいなあ。

 

The Complete Live At The Plugged Nickel 1965

The Complete Live At The Plugged Nickel 1965

 

 

 

 

 で、すっかり緊張が切れてしまった語学徒の冬学期だけれど、『自習ロシア語問題集』をようやく21課まで。副動詞を間違えまくって、忘れてること多いなあと痛感。ふだんいかにロシア語を書いてないかという証拠。

 Macに戻ることも検討中。中古のMac Proを買ってメモリやHDを増強するとけっこう強力なマシンとしていまだに使えるという動画もあるが、自分にはそういうスキルがないから、やめといた方がいいかもしれない。

 次の一冊は、↓これかもなあ。ふと出てきて、そういや読んでない。研究室のソファに寝っ転がってこれを読んでいた後輩は、ロシア語も英語もよくできるやつだったけど、北海道に見切りをつけて、内地に転職した。

 

Breakfast at Tiffany's

Breakfast at Tiffany's

 
Breakfast at Tiffany's (Penguin Essentials)

Breakfast at Tiffany's (Penguin Essentials)

 

 


Miles Davis - So What/The Theme (Live At The Plugged Nickel)

駅~FMの失恋ソング三昧を聴きとおしてしまった春分の日


駅 Eki (Live) - Mariya Takeuchi 竹内まりや

 札幌から帰って、まだ疲れが取れず、世間も連休の最終日だし、まあいいか、と一日ラジオを聴いていた。NHK-FMの『今日は一日失恋ソング三昧』。竹内まりや「駅」が流れ、そういえば、先日の最終講義をした先生は、夫君も高名な大家で、学才に優れるだけでなく人柄を慕う人が多く、言ってみればアカデミア版竹内まりやみたいな人なのだった。

 勤めていたころのことはもういいのだが、驚いたのは若い先生がたに、ポストを得るか得ないかのころからちゃんと結婚相手がいるらしいことだった。別に驚くような話でも実はなくて、二十代後半から三十代にかけての若者らにちゃんとそういう相手がいるのは、当然すぎるくらい当然なのだ。

 てめーら適度な高学歴同士でつがいになりやがってとか思う…というのは、実はあんまりなくて、自分もじきにそうなるだろうくらいに考えていた。が、同じ客観的条件をいくら与えられても、なぜかぼくにはそういうめぐりあわせは来ない。来ないものは仕方ない。で、ずっとひとりだ。

 で、今日の失恋ソング三昧だけれど、どうも自分の場合は、番組でさかんに紹介されていた失恋の事例ともちょっと違うのではないか。それは子供のころ、公務員宿舎に住む転勤族のこどもの親が、ぼくの家のことを「あんなところに遊びに行くな」と言っているのを知ったときの、頭を殴りつけられたような衝撃に近い。

 ちょっとうまく書けないので、ここまでにしておこう。中堅大学に転出するかつての友人のことがうらやましくないかといえば、ちょっとはうらやましい。しかしもう、妬ましいとまでは感じない。ぼくは地球に遊びに来た男、くらいのつもりで、ゆっくり、あせらず。また新年度が始まるし、そのうち楽しいこともあるだろう。

 

ロンドンで本を読む  最高の書評による読書案内 (知恵の森文庫)

ロンドンで本を読む 最高の書評による読書案内 (知恵の森文庫)

 

 

 

 

 

ソシュールを読む (講談社学術文庫)

ソシュールを読む (講談社学術文庫)

 

 

 

『資本論』を読む (講談社学術文庫)

『資本論』を読む (講談社学術文庫)

 
マルクスを読む

マルクスを読む

 
初期マルクスを読む

初期マルクスを読む

 

 

 

Reading Capital Today: Marx After 150 Years

Reading Capital Today: Marx After 150 Years

 

 

 

Reading Bakhtin in the Novels of Robert McLiam Wilson

Reading Bakhtin in the Novels of Robert McLiam Wilson

 

 

Reading Gothic Fiction: A Bakhtinian Approach

Reading Gothic Fiction: A Bakhtinian Approach

 

 

 

 

 

ラズベリー・ドリーム~マキャベリの英語の伝記が出たみたいで

www.

theguardian.com

 

Be Like the Fox: Machiavelli in His World

Be Like the Fox: Machiavelli in His World

 

 

 

Be Like the Fox: Machiavelli's Lifelong Quest for Freedom

Be Like the Fox: Machiavelli's Lifelong Quest for Freedom

 

 

 

君主論 (岩波文庫)

君主論 (岩波文庫)

 
君主論 (まんがで読破)

君主論 (まんがで読破)

 

 

近代社会思想史

近代社会思想史

 

 

 

新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO)

新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO)

 

 

  『君主論』は、書庫に行けば見つかると思う。で、マキャベリの英語の伝記。買ってる余裕はないと思うけれど。

 先日書いたとおり、マキャベリにおける「徳」というのは日本語で言うような「人徳」のことではなく、ふりかかってくる運命を主体的に操作する才覚のことを言い、これはいわゆるマキャベリズムの名でふつうに通用している考えだ。悪い意味で使う人も多い。

 ちょっと飛躍するかもしれないが、先日、旅先のホテルでコインランドリーを使っている間、ロビーにおいてある日本経済新聞を読んでいたら、「ひとりひとりをおもんばかっていたら指揮官は務まらない」といったことが書かれてあって、アハハと苦笑。大学でも、管理運営にたずさわるような人らは、今はこういう考え方なんだろうなあ。経営学なり現実の企業経営なりのこういう面は、私見ではマキャベリの「徳=ヴィルトゥ」の思想に通ずると思う。

 だから、社会思想史は、けっして死んだ学問じゃない。理系の教授が要職についてからリーダーシップ論のビジネス書なんか読んでいるのを見たことがあるが、まあそういう立場になってから急に『君主論』なんか読んでる余裕はないわな。若いうちに、文系も理系も、こういうところにまでさかのぼって勉強しておくといいんじゃないか。

 なんでもいいけど、この時期に知っている先生の最終講義に行くと、人事の動静がいやでも耳に入ってくる。かつてはぼく自身が、大学に赴任が決まったことを本州の恩師に報告に行く立場だった。なんでもいい、みんな元気でいてくれよな。また遊ぼうな。

 


ラズベリードリーム / REBECCAレベッカ

定義不可能な先行性としての「価値」~マルチ・ディスプレイをやってみたいと思いつつ

 貨幣は使用しているうちに摩滅し、名目上の価値ではなくなる。実質的な価値と名目上の価値が分離する。だから紙幣で代用できる。紙幣は「記号」になる。

 

 

池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」

池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」

 

  今朝はよく寝ていた。もう覚えていないが、明るい、いい夢見で、いつも通り自宅で寝ているのだと思って、それにしてもいいベッドに寝てるなあ…と目ざめたら札幌のホテルだった。

 それから支度をしてチェックアウト、JRやバスやらを乗り継いで帰ってきた。今朝はまだ札幌にいたのが信じられない。

 で、いま「しょし」と入力して「初志」ではなく「諸氏」と出てしまったが、本当に

 「初志」からも「諸氏」からも遠いところへ来てしまった。この二十年ばかりがまさに走馬灯のように脳裏をよぎる。ずいぶん以前にモスクワの図書館で某作家の本の大半のコピーを取ってきたことがあって、自分では手に余るので他のかたに委ねてしまったのだけれど、そんなことはすっかり忘れていた。それをもとに翻訳が出たことがあり、そのお礼を言われたりしたが、もう何やら自分のことではないみたいな気がする。

 札幌の大学では活発に研究活動が行われており、ここ数年、年に何度かお世話にはなっているからまんざら今ウラシマでもないのだが、このところ最初の大学で学んだ(学び損ねた)ことばかり考えていたせいもあって、自分の関心のありかは、文学プロパーの人らとは、かなりずれているのに気づくのだった。

 最初の大学で学問らしい学問が修められなかったのは、自分が、自分に甘い怠け者だからだというのははっきりしている。が別の見方では、経済学自体がその核心に、子どもにはわからない〈定義不可能な先行性〉をはらんでいるからだ、とも言えはしまいか。

 たとえば、上掲の本にこんな一節。

 たとえば今ここに一〇〇〇円札があると、これはなぜ一〇〇〇円札として通用するかといえば、みんなが一〇〇〇円の価値があると思っているから。これを「共同幻想」といいます。これはなぜお金なのか。みんながお金だと思っているからだ、という説明しかできないの。[…]

 この点。なまじ浅く納得してしまうと、あまりにあほらしくて、それ以上は経済のことなんか勉強したくなくなる。そこを、若ければ若いなりに自分の頭脳で一回徹底的に考え抜くことが必要ではないか。そうでないと、そのあとの剰余価値のことなど魂にも頭にもすんなり入っていかない。これは、簡単に言おうと思えばいくらでも簡単に言えて、価値は価値だから価値なんだ、という、それだけのことでしかないから。

 もう昔のことだけれど、TVの教養番組か何かで、当時気鋭の社会学者が出てきてこのことにふいに触れた。「剰余価値というのはマルクス経済学にしか出てこない概念だが

すごく重要で(うんぬん)」といったこと。そこを今さらたどり直している。

 ただ、経済学者の研究テーマの選び方の話として、「きみ、価値論は損だよ」ということはあったらしい。結局、形而上学になってしまうから、経済学としては完結せず、論文も書けない、ということだろう。どうもエソテリックで入りづらい。何を読めばこういうことが書いてあるのか。

 パソコンにばかりお金をかけてはいられないけれど、このSurface Pro 3を大きなディスプレイにつなぐことをやってみたい気持ちは変わらない。Pro 4というのも出たらしいが、ちょっと手が出ない。


Surface Pro 3 Tips - Working in the Office with 4 Screens, 4K Display, Docking Station...

 

 

漱石と『資本論』(祥伝社新書)

漱石と『資本論』(祥伝社新書)

 
哲学的価値論―日本・中国・旧ソ連での論究
 

 

現代資本主義と労働価値論 (中央大学経済研究所研究叢書)

現代資本主義と労働価値論 (中央大学経済研究所研究叢書)

 
労働価値論を具体的に理解する

労働価値論を具体的に理解する

 

 

 

『学説史』から始める経済学―剰余価値とは何か

『学説史』から始める経済学―剰余価値とは何か

 
資本と剰余価値の理論――マルクス剰余価値論の再構成

資本と剰余価値の理論――マルクス剰余価値論の再構成