学生通り~福沢諭吉と森山栄之助
[…]けれども段々聞いてみると、その時に条約を結ぶというがために、長崎の通詞の森山多吉郎という人が、江戸に来て幕府の御用を勤めている。その人が英語を知っているという噂を聞き出したから、ソコで森山の家に行って習いましょうとこう思うて、その森山という人は小石川の水道町に住居していたから、早速その家に行って英語教授のことを頼み入ると、森山の言うに「昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角習おうというならば教えて進ぜよう、ついては毎日出勤前、朝早く来い」ということになって、このとき私は鉄砲洲に住まっていて、鉄砲洲から小石川まで頓[やが]て二里余もありましょう、毎朝早く起きていく。ところが、「今日はもう出勤前だからまた明朝来てくれ」、明くる朝早く行くと、「人が来ていて行かない」と言う。如何しても教えてくれる暇がない。ソレは森山の不親切という訳けではない、条約を結ぼうという時だから、なか\/忙しくて実際に教える暇がありはしない。[…]加うるに森山という先生も、何も英語を大層知っている人ではない、ようやく少し発音を心得ているというくらい。迚[とて]もこれは仕方ないと、余儀なく断念。
森山多吉郎とあるのが幕末の通訳・森山栄之助のことで、福沢が彼に英語を教えてもらおうとしたが、うまくいかなかった話。
このとき森山はすでに通訳というよりは外交官に近い仕事をしていたはずで、そんな人が片手間に懇切丁寧に英語を教えることができるはずがない。
で、「森山という先生も、何も英語を大層知っている人ではない」という一節はなんとなく覚えていた。その森山のイメージがあったので、以下の本で描かれる語学の達人としての森山が、やけに新鮮だった。
この、福沢による森山評については、何か本を見ればくわしく書いてあるのかもしれないが、今日パラパラ『福翁自伝』を読み返してみても、二人の語学に対するアプローチがそもそも対照的で相いれない部分があったんじゃないか、と感じられる。
『福翁自伝』のこんな一節。
何も知らぬ者に如何して教えるかというと、そのとき江戸で翻刻になっているオランダの文典が二冊ある。一をガランマチカといい、一をセインタキスという。初学の者には、まずそのガランマチカを教え、素読を授ける傍らに講釈もして聞かせる。これを一冊読了[よみおわ]るとセインタキスをまたその通りにして教える。どうやらこうやら二冊の文典が解せるようになったところで会読をさせる。
ガランマチカはもちろんグラマー=文法、セインタキスというのはシンタクス=統語法、つまり構文の話。会読というのは、今はどうか知らないが、いわば大学院のゼミだ。その段階に達したら、わからないところがあっても質問すら許されないというのが、福沢の学んだ緒方洪庵の適塾の学風だ。
これはもちろんオランダ語を学んだ時の話ではあるけれど、福沢の語学習得法の一端はここにはっきり出ている。一字一句ゆるがせにせず構文をとっていく、という語学だろう。
これに対し、森山は長崎の通詞の家に生まれ、やはり通詞である親からスパルタ式の口伝えでオランダ語を習得した人だ。オランダ人が讃嘆するほどの流暢なオランダ語だったが、福沢とは習得した経路がまったく違う。
両者はともにオランダ語にきわめて近い英語へと向かったから、時代さえ許せば、両者が自分の歩んできた語学取得法を相手の方法と比べて相対化し、分かり合う、ということができたかもしれないが、それはないものねだりだ。条約締結の激務にあたる森山には、漂流民ラナルド・マクドナルドについて英語へ入門した経験を客観的に体系化して、福沢のような文法派に伝える、といった余裕はなかっただろう。
ぼくらはとりあえず平時に生きていて、語学習得法もいろいろ選べるのだから、ぜいたくを言ってはばちが当たる。二階の書棚に以下の本、この夏も読むひまないけれど、今度ちらっとでも見ておこう。