俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Follow Me To The Bookstore~野口英世のシェイクスピア・モギケンの『赤毛のアン』

 もちろん、英語教育にも改善すべき点はいくらでもある。意見を言っていただくことはありがたいのだが、一番困るのは、自分の英語が相当なものだと勘違いしている人(しかも、しかるべき地位にいる人)が、公的な場で無責任かつ的外れな意見を述べることだ。

 

英語達人列伝―あっぱれ、日本人の英語 (中公新書)

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  もうこの問題はいいやね。ぼくもとうに大学の人ではないし、もともと英語教師でもない。

 それでも、この一節など読むと、この一節自体と言うより、こんな高名な先生でもこんなことを書かざるを得ないその構造というか、そこにため息が出る。

 ここに例の文系と理系の対立の図式がすっぽりとおおいかぶさって、ああいやだいやだと言いたくなるが、もうぼくには関係のないことではあるな。

 この一節は野口英世のことを書いた章からの引用なのだけれど、アメリカへ渡る船の上で野口がシェイクスピアを読んでいて、

「現代の米大陸に行かうとするものが、そんな古い英文を読むより、何か現代のものを読んだ方がいゝではないか」

 と問われ、

「古くとも、シェークスピアの英文は、代表的なものです。先づ我々は、古いものを初めから読む方がいゝと思ひます」

と答えるエピソードがある。著者いわく、

彼の卓越した英語力を示す逸話であり、とくに理系の人に大いに参考にしてもらいたい考え方である。

 ただぼくも、これを引用して悪感情をあおろうというのではないのですよ。そういうことこそくだらない。シェークスピアというから一種の臭みがあるが、これは程度こそ違え、モギケンが高校生のころ『赤毛のアン』を次々読破した話とかとあまり変わらないと思う。

 理系に限らず、文系であっても、社会系の人、歴史系の人、英語で小説を読むという経験をしたことのない人は、いっぺんしてみるといい。語学に関する考え方がガラッと変わり、視野がうんと広くなること請け合いだ。そこまでやってぜんぜん損はないですよ。真に若い人のことを思って英語の重要性を言う人であれば、「こんなことに時間を費やすのは損だ…」と言う人は、まずいないはずだ。

 チャールズ・ラムを買ったきりどこかにしまい込んで出てこないが、少し探してみよう。その前にぼくはロシア語のほう、自主的な冬学期の課題を積み残したままなんだ。

 


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「赤毛のアン」で英語づけ

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「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法 (講談社文庫)

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モギケンの英語シャワーBOX 実践版

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