俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

青春にオーレ~『ロンドンで本を読む』は楽しい本だ

 さてどこから始めようか。おそらく初期のエッセイ、「言語一般および人間の言語」がいいか。ここではベンヤミンは「言語の出番」を予想し、認識論的=社会的諸問題を、言語という母体の内に置くことを先取りして行っている。このことは、アングロ=アメリカの論理実証主義からデリダ派のデコンストラクションに至るまでの二十世紀思想の多くを新たに方向づけることになるはずであった。ベンヤミンを深く特徴づけているのは、人間の話し言葉発話行為を人間の楽園失墜と結びつけていることである。言葉と世界とが同語反復的に一致していた「アダムの言語」から切り離されたことが原因となって、抽象化の必要性と可能性が、また、文法に則った、文法を通じての、隠喩と判断の必要性と可能性が生じる。そこからは、バベル(言語の混乱)のドラマと、それ以後の多重言語の状態もまた同様に発生するだろう。

 

ロンドンで本を読む  最高の書評による読書案内 (知恵の森文庫)

ロンドンで本を読む 最高の書評による読書案内 (知恵の森文庫)

 

  『ワルターベンヤミン著作選集』第一巻についてジョージ・スタイナーが書いた書評、「エヴァがアダムを誘惑した時、いったいどんな言語で誘ったのか?」の一節(土岐恒二訳)。言語論的転回、というのはぼくが二度目の学部生のころ、言葉としてはお習いしなかったが、必修の「言語論」などはほぼその線での講義だったから、上の一節はよくわかる気がする。

 ではその二度目の学部生のころ、ベンヤミンのことは知っていたのかというと、ドイツ人の先生の独語会話の時間に「ベンヤミンを知っているか?」と先生が口にして、誰も答えられなかったのをおぼろげに覚えている。ぼく自身、名前は知っているけど…程度だった。

 もう本当にあとになってから(8年前?10年経ってない?)、以下の本が出て、むさぼり読んだんだった。これも決して平易ではないが、ああ、そうか、そういうことか、と呑みこみながら読んだ。これは面白かった。

 

名前はしかし、言語の究極の叫び(Ausruf)であるだけではない。それは言語の本来的な呼びかけ(Anruf)でもある。このこととともに、名前という姿で現れているのは言語の本質法則である。その法則によれば、自分自らを語り出すことと他のすべてのものに呼びかけることは、同じひとつのことなのである。

 

  ただ、それで興味を持って、ちくま文庫の『ベンヤミン・コレクション』をそろえた、そのあたりでそっち方面は中断したまま。本の置き場がなくて、老母の部屋のカラーボックスにこれらの本を並べてあるので、いつでも手に取れるけれど、ドイツ語はもはやぜんぜん読めないし、まあ、いろんな意味でゆとりができたら、だろうなあ。ずっと勤めていたら、上記の本をネタに、日本語、英語の文学作品いくつかを俎上にのせて、紀要に作文を数編…って、そんな甘いこと考えていたころもあったのが、今となっては懐かしいというか恥ずかしいというか。

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)

 

  で、『ロンドンで本を読む』は楽しい本だ。買ったままずっと読んでなかったけれど、読まないのは惜しい。イギリスの新聞のたぐいに出た書評をえりすぐったもの。クンデラエーコナボコフ紫式部遠藤周作北杜夫村上春樹、そしてこの書評集の編者である丸谷才一自身など、取り上げられている顔ぶれだけ見ても面白いが、一本一本が充実したエッセイで、無味乾燥なものは一つもない。

 北海道は明日まで寒いが、そのあとようやく春らしくなってくれるらしい。昨夜の雪はほとんど溶け、午後のにわか雪も春のぼた雪。年度替わりで、新年度に関するメールなど来る。春休みを利用して海外の学会に行ってる人からも。

 ↓これは有名なヒット曲を下敷きに、譜割りをちょっと変えて工夫したのだろう。ぼくもこんな気分。ペンを6本まとめ買い。


白い恋人コンサドーレ10周年