俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

We'll Be Together Again

  歴史家にして哲学者でもあったトマス・カーライル[…]との付き合いは、ゲルツェンがドイツの雑誌に掲載した『向こう岸から』や『フランスとイタリアからの手紙』などを出張先のドイツで読んだカーライルが、それらの著書に強い関心を示し、ロンドンの妻に宛てた手紙で何度となくゲルツェンのことを書いたことに端を発している。妻は当のゲルツェンがロンドンに来ていることを知り、自ら主宰するサロンにゲルツェンを招いた。カーライルについては『フランス革命史』(1837年)の著者としてかねてより知っていたゲルツェンは、この招きに喜んで応じた。一八五二年九月十四日のことだから、ゲルツェンがロンドンに来てからそれほど日が経っていない頃のことである。この茶会には後に『種の起源』(一八五九年)で知られることになるあのチャールズ・ダーウィンその人や、ドイツ人亡命者ライヘンバッハ夫妻など六名が同席した。

 

ゲルツェンと1848年革命の人びと (平凡社新書)

ゲルツェンと1848年革命の人びと (平凡社新書)

 

  この一節の背後にひしめいている一九世紀ヨーロッパの風景。当時の知識人は「サロン」=「茶会」で顔を合わせて議論をするのが普通だったのか。非公式にいきなり訪ねていくなどということはしなかったのか。茶会への招待は、どうやって行われたのか。郵便なのか。カーライルはいったい何か国語読めたのか。ダーウィンが同席したということは、今日的な「理系」対「文系」という文化摩擦は当時なかったのか。この茶会では「四か国語」が飛び交い、まるで「精神病院」のようだったとあるが、四か国語とは、何語と何語と何語と何語なのか。また「精神病院」はそのように理解不能な言語が飛び交う空間として認識されていたのか。また、出張先からの文通など、どの程度おこなえたのか。そもそも、こうした知識人同士の認め合い=「この人とは話が合いそうだ」という見当のつけ方が、異言語を介していったいどのように可能なのか。誰か教えてくれえ! と心の中で叫びつつ、ここに引用しておくけど、思想史をやってる人はこの辺のことよく知ってるんだろうか。

 これを過ぎればいいかげん春、と思いつつ、寒い一日を過ごす。ロッド・スチュアートの『グレート・アメリカン・ソングブック』、去年、パソコンで札幌のコミュニティFMを聴いていたら、トーク番組の合間にしきりに流れていた。あの時はつかの間、当地も暑かったんだよなあ。短パンをはいたりして、昼間から風呂場で涼んでいたんだっけ。このアルバム、そのとき買ったけど、アマゾンのマーケット・プレイスでほとんど投げ売りだった。売らんかなの安易な企画なのだよなどうせ。で、一回聴いて放ってあったけれど、今聴くといいんだなあ。うたごころ、とはこういうものかと。

 


Rod Stewart - We'll Be Together Again