俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Tocqueville Lectures

 以上の相互誤解を抱えた論争ではあったけれども、けっきょく明白になったのは、第一に双方ともテクストは間テクスト性を前提とし、テクスト内にすでに自己脱構築的契機を含むと考える次元では共通しながらも、こうした自己脱構築性をミラーが「すべての傑作の構成要素」と見るのに対し、リデルが「モダニズム作品にはなく、ポストモダニズム作品に備わる要素」と歴史的見地から定義して喰い違いを示している点。第二に、このミメシス理論/テクスチュアリティ理論の対立というのが、実は前期ハイデガーから後期ハイデガーへの移行、つまり存在論的な人間中心主義(原存在)からそれへの批判としての書き言葉を中心とした言語中心主義(存在)への移行を孕んでいる点だ。そこにはいわゆるデカルト的「われ思う、ゆえにわれ在り」からミシェル・フーコー的「われ語る、ゆえにわれ消滅す」への移行がある。ロゴス中心主義は書き言葉(エクリチュール)に代替されてしまう。人間の終焉が決定し、言語の勝利が謳歌される。

 

メタファーはなぜ殺される―現代批評講義

メタファーはなぜ殺される―現代批評講義

 

  そういえばかつてこの自分も『ポストモダニズムが辺境に波及するとき』なんぞという本をいつか書けまいかと夢を見ていた、夢を見ていたというのは、その核となる論文のたぐいはせいぜい一本申し訳程度に「勤務先」の「紀要」に載せてもらったのみで、何ら具体的な目次も骨組みもなく、ただただ間テクスト性なり言語論的転回なり脱構築なり差異なりの術語が日本語という言語的流通の末端でいかによじれ、逆巻き、奈落のような滝壺のような虚無へとなだれ落ちていくかについてのわずかな見聞があるのみであったから。しかし…いやしかしもへったくれもなく、だれだって一度きりの人生なのだから、ここまで来た以上は一年でも一日でも長く生きて、どんなに小さくともよいどこかの活字媒体にあといくつかの作文を掲載してもらうことを目指すしかないではないか。作文そう作文でけっこうであり12歳から16,7歳までさかんに書いてその後すっかり忘れた「小説ごっこ」しか、もうよりどころとすべき経験も学知も自分にはないのであって、付け焼刃ははがれ落ちるにまかせ、それでも残ったギリギリのところを字にしていく以外にこのたった一回きりの生の構造的再生はあり得ようはずもなく、だからなんだと言われると困るのだが、大学という場所と縁が切れたからといってそんなことはぜんぜん気にすることはないのだ身銭を切って本を買い勉強すればいいのだ。


Tocqueville Lectures: Takayuki Tatsumi

 

 

The Inverted Bell: Modernism and the Counterpoetics of William Carlos Williams

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Fiction and Repetition: Seven English Novels

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