マンボ・バカン~金と労働価値のことに思いがけないところで出会う
貴重な金属をどうしてそのような無駄なことに使ったのだろうか、という質問に答えて、一人の古参の考古学者が、昔ある国で、その国の保有する金がそっくり消えてしまったという伝説を、古い文献で読んだことがあるという話をした。当時は金が労働の価値と同じ値打ちを持っていたのである。その頃、ある国に犯罪的支配者がいて、横暴な政治をおこない、国民を疲弊のどん底につきおとし、あげくのはてには国外へ逃亡してしまったのであるが(当時は国境というものがあって国民は自由に往来することができなかった)、かれは外国へ逃げる前に、こっそりとありったけの金を集めさせ、それで大きな彫物をつくらせて、それをその国の一番人の集まる大広場に建てさせた。誰もそれが金でできているとは気づかなかった、という話である。おそらくその彫物の表面は安い合金でつつまれていたので、内部の金属が何であるかは、その当時としては、誰にもわからなかったのだろう、とその考古学者は推測した。
「そのような無駄なこと」というのは、未来の地球が舞台となっているこの小説で、海中から金で出来た馬の彫刻が見つかることを指す。
当時は金が労働の価値と同じ値打ちを持っていたのである、ここなんだよなあ。経済学科で勉強させてもらったのに、金本位制というのがどういうものだったのか、ぼくは歴史に即してわかっていない。
いま手もとの高校生向けの日本史の参考書を見ると、日清戦争後に綿紡績業が確立し、綿糸の輸出量が輸入量を上回り、また日清戦争の賠償金が入ったため、それを準備金として1897年に金本位制が確立、とある。
たしか西南戦争の戦費のためにそこらの銀行に刷らせた紙幣のせいでインフレとなったときは松方正義が大蔵卿になってそれを整理し、そのときはいったん銀本位制となったんじゃなかったか。つまり、紙幣を銀行に持って行くと銀と替えてくれた。それが金本位制になったのが明治三十年、ということ。まあそれはわかる。
で、今でも紙幣の究極の裏づけは金だ、と語る人もいる。
佐藤 ええ、論理的に詰めてゆくと金に換えられるものが通貨だという考えに私は立ちます。それは二つの理由があって、一つは自分のソ連末期の実体験から、貨幣が最終的にもので裏打ちされていないと貨幣でなくなるところを見た。もう一つは、ニューヨークの連邦銀行の 地下になぜ金があんなにあるのか? しかもあれ、ときどき移動させるんです。日本銀行の持っている金がニューヨークの連銀に動いたり、ニューヨークの連銀の金が日本へ動いたりする。わざわざ、そんな金を移動するだけのつまんないゲームをやるのは、やはり人間が金というものから離れることができないからだな、と思うんです。
で、連想はどんどん飛ぶのだが、むかしメアリー・シェリーの演習があるからというので単位を取りがてら出たが、そのときパラケルススという錬金術師のことをちらっと習ったのだ。人為的な化合によって金でないものを金に変える錬金術 alchemyというのは、やがて近代の化学 chemistryになっていったというくらいのことしかおぼえていないけど、ここのところ、化学と経済とがつながって見える部分で、やっぱそうなると英語だけ読めたってそのへんの勉強は難しいかもしれない(ロシア語は多分あんまり関係ないだろう)。
目に見えない病気-いかにして目に見えないものを目に見えるかのようにして見るか- (ホメオパシー古典シリーズ)
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金と言えば、そんなふうに連想が働く。勤めているうちに金投資でもしておけばよかったかもしれないが、そっち方面にはぼくのあたまはちっとも働かないのでダメなのである。
一日じゅう雨で、そんなこと考えつつ一日が終わる。老母が赤い長靴を買った。
フルートを吹くとすっきりするという件
対日交渉をする際、どのような言語を使うべきか、ペリーは、むろん調査ずみであった。「プレブル号」のグリン艦長からは、長崎に妙な発音ながらも英語で話すことのできるモレアマ・エイナスカ(森山栄之助)という通訳がいることを聴取していた。が、それはモレアマ一人だけのことで、一般には貿易を許されているオランダと中国の者たちと会話をかわす世襲通詞の集団がいることを知っていた。
話はぜんぜん違うのだけれど、苦境にある人にアドバイスをするのは本当に難しい。
ただ、心に残る救いのことばをかけてもらった経験はぼくには何度かある。いや何度「も」だろうか。
後輩の女の子は、フルートを吹くといいですよ、と教えてくれた。何かフルート奏者の団体の事務か何かのアルバイトをしていて、その関係でちょっとやってみたら、フルートの演奏には肺活量が必要で、腹に力が入って、相当の腹筋の運動にもなる。練習をやると汗もかくし、すっきりしますよ、と言って、それだけだったんだけれど、そのときのことはずっと忘れずにいる。
ぼくは譜面が読めないので、けっきょくフルートも触ったことすらないけれど、苦しい時は、そのことを思い出す。
今日はそのことだけ書いておこう。
マイ・ペース「東京」は、生で見たことがある。誰かの前座で、当時もう二人組になってしまったこのグループが出てきて歌った。遠い昔。
関係代名詞節の魅力~1989年のゴンチチ
Abe's plan is to leave intact the current wording - which bans land, sea or air forces -while adding a paragraph making clear the constitutionality of the SDF - which comprises land, sea and air forces.
’Japan Times On Sunday' May 21, 2017
内容に関してはコメントしないが、英語の構造ね。関係代名詞節がうしろに置かれて、そこに落ちがあるという、それを確認するためにメモっておこう。
たしかずっと以前、息子の方のブッシュ大統領の演説というのを聴いていたら、 "I am from Florida, which is very close to the United States."と言って会場を笑わせていたことがあった。Floridaのあとに一応コンマを入れておくけれど、絶対ここにコンマが入るかどうかはわからない。高校でこの関係代名詞節について、制限用法、非制限用法の区別を習ったが、これもこういうスピーチの場合にはどっちとも言えない場合が多い。訳す場合には、ぼくは誤解の余地がない限りは非制限用法的に前から訳して行くのがいいと思う。これは「わたしはフロリダ出身で、あそこはアメリカにすごく近いんですよ」くらいに訳さないと面白くないだろう。
上の引用も、語順の通りに理解していってこそ、「9条を変えずに9条を変える」ことの矛盾を衝こうという、この記事の書き手の意図がわかる。繰り返すけど、その当否についてはここではコメントしない。
勉強ははかどらないで、今日は疲れて寝ていた。iPod、流しっぱなしにして、ここ16,7年、いやもっとひろく、ここ30年を振り返る。とにかく、長い時が流れた。ゴンチチの平成元年の放送音源なんてものがあるのか。
あなたの町 恋の町~2013年のFM番組の録音を捜す曇りの日
MDに録音したラジオ番組がどっさりあるが、ふだんは聴き返すことがほとんどない。しかし今日、ふと数年前のNHK-FMの深夜にやっていた番組を思い出した。「とことんしゃがれ声重量級」とかいう二週にわたる特集だったと思うけれど、たしか録音したのだ。
ヴィソーツキイやビーフハート、ハウリン・ウルフみたいなのが次々かかる…という期待とはうらはらに、そんなにしゃがれ声じゃない歌も多かった、しかし面白く聴いた記憶がある。案内役はもとバービーボーイズの杏子ねえさんで、それがよかったのだろうね。
で、たしか昭和歌謡の回があって、そこで青江美奈「伊勢崎町ブルース」が流れたのだ。この選曲はしゃがれ声特集なら当然だけれど、杏子さんの解説がすごく面白くて、それで憶えていた。
今日、その回のMDを捜したら、あったよ。2013年の12月の放送だ。聴き返すと、杏子さんこんなことを言ってる。「伊勢崎町ブルース」はイントロや間奏の青江さんの「あ~ん、あ~ん」というあられもないため息が話題だったけれども、小学生も当時さかんに真似をしていた。で、当時、杏子さんのいた千葉の小学校では歌謡曲は歌ってはいけないきまりだったので、ましてやあれはNG。ところがへ理屈をこねる生徒もいて、先生に「『あ~ん、あ~ん』は歌なんですか、歌じゃないんですか」と訊ねると、先生は「歌です。いけません」という、ね。
これは字にすると、別にどうってことない思い出話なんだけれど、杏子さんのあの口調で話されると、もうおかしくてたまらない。ませた小学生の女子や先生の口調をまねるところが、もうなんか絶妙というか。こういうお話をしてくれるお友達が欲しい。
他に、和田アキ子、リリィ、フランク永井、松尾和子、宇崎竜童、藤圭子、江利チエミ、美空ひばり、そして杏子さん本人と、まあそんなにしゃがれ声じゃない人も入っているけれど、楽しい掘り出し物で、お酒呑み生活をしていたらまちがいなくいいつまみだろう。でももう飲まないからねぼくは。
で、こんなもの貼っておく。当時知らないけれど、いいなあこういうの。音源、どこかにないだろうか。
五月、河岸書店で~『ワルツ・フォー・デビ―』はやっぱりCDで持っていたい
詩がそうであるように、世界も理念や概念の乗り物[ヴィークル]ではない。そのことこそが、それらがわたしたちの経験のなかにあるとともに、外在化しているという意味なのであって、世界が何で出来ているかを問うことは、決して交差することのない理念と経験という二重化を、どちらかへの一方的な還元を斥けながら、それぞれの諸相を貫いていき、その抵抗を確認していくことでしかありえないだろう。このことは、詩に関して言うならば、芸術か生活か、あるいは難解か平易かといった、ヨーロッパなら十二世紀ルネッサンスと呼ばれるトルバドールの詩文学から、そして、日本なら平安末期の歌人たちから、千年近くに渡って仮構されてきた対立が、およそ無意味で任意的なものでしかないことを意味している。本来、そこにあるものは、対立ではない。そのどちらかを捨て去った身振りをしてみせても、捨て去られたはずのものは、依然として揺らぎもなく存在しつづけるだろう。海洋か、陸地か、そのどちらかを得て、それが世界だと叫ぶことは、たやすく、そして愚かしい。
五月がもう終わりにさしかかりつつある。毎年のことだけれど、4月から5月にかけての時の流れの速さ。
ゴールデンウィークというのも、もうとっくに終わったけれども、いつの年だったか、まだ大きな川のそばに住んでいたころの五月の連休、その河岸に小ぢんまりした知的な書店があったらどんなにいいだろう、などと考えていたことがあった。
もちろん田舎には、もはや文化の拠点となりうるような小書店は、きわめて存在しづらい。どこも大型店とネット通販に挟撃されて、そういう書店は消えつつある。もともと、学術書や洋書を置く店なんか、北海道の田舎にあった例をぼくは知らない。だからそれは、はなっから実在なんかするはずのない、意図的に見た白昼夢かまぼろしのようなものなのだ。でもぼくはその夢の書店に「河岸書店」という名前までつけて、大学ノートに「五月、河岸書店で」といううわごとめいたメモを書きつけた。
…とここまで書くと思い出すのだが、上に書いたぼくの「五月、河岸書店で」は、当時読みかけのままいまも読了していない堀江敏幸の小説を、きわめて表面的になぞった作文にすぎなかったと思う。思う、というのは、もうその大学ノートの現物は出てこず、確かめようもないから。
そう、大学ノートに着想をメモして保存するといったことすら、もうその時はできなくなっていて、そんな荒廃した自暴自棄の生活のなかから、なんらか研究と呼べるものが生まれるはずもなかった。世の中には大学教師をしながら作家活動をする人もいるらしいことを知って、いったいなぜそんなことが可能なのかと、ただただふしぎな気分だった。
ではあるけれども、そこにあの時の五月の陽光や、川面のきらめきや、ちょっとどぶくさい淡水と海水が混じり合う臭いや…が作用したこともまた否定できないことで、憶えているうちにここにメモしておこう。
理系の先生が詩や俳句・短歌をやるのはよくあることで、ならばぼくらが大学勤めのかたわら文学活動をできないこともないはずだが、そういう例を案外知らない。ぼくも本当は外国語は口実にすぎなくて、『現代詩手帖』の常連投稿者になりたかったのかもしれず、そういえばここではどこへ行けばそういう雑誌のバックナンバーがそろっているのだろうか。
有名詩人の詩・詩論はそれはそれで素晴らしいが、ぼく自身は、名のある詩人ではなくそういう雑誌の投稿詩や詩論に多くを教わった気が今でもする。そういうものの抜き書きやコピーの切り張りをきちんと作っておく習慣が当時あれば、今ごろたいへんな財産だったはずだ。
ともあれ、四月、五月は、あわただしかった。心休まらず、心配事を抱えたまま、月を越えてゆくだろう。静かに暮らしたいなあ。
話は変わるけれど、アマゾン・プライムで100万曲以上が聴き放題というのを、ぼくは今までほとんど使ったことがなかった。今日、ビル・エバンズ『ワルツ・フォー・デビー』、CD店に買いに行こうかと思ったが、これで聴けるのに気づく。タブレット端末からライン出力してステレオで鳴らすと、案外いいわこれ。これだもの、CD店、書店、大変なはずだ。ただ、これと『バド・パウエル・イン・パリ』は、CDで持っていたくなった。
- アーティスト: ビル・エヴァンス・トリオ,ビル・エヴァンス,スコット・ラファロ,ポール・モチアン,アイラ・ガーシュウィン,Dubose Heyward,ジョージ・ガーシュウィン
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バド・パウエル・イン・パリ(SHM-CD/紙ジャケットCD)
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Waltz for Debby - Bill Evans - Piano Solo - Cover
デコポンを買った曇りの日~みんなつながっているが人生は有限だということについて
『羨望』や『リオムパ』は想像されたものが、想像したものを破滅に追い込む小説であり、そこには外部の事物に対する恐怖を読み取ることができる。ここで挙げたような擬人化された事物にも、外部の事物を生きた他者とみなす感覚、外部の事物に対する恐怖を見ることができるだろう。
創造物の創造主に対する反逆という物語は、文学史において繰り返されてきたものだ。『羨望』に登場する機械「オフェーリア」は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』やチャペックの『R・U・R』を連想させる。
沈黙と夢―作家オレーシャとソヴィエト文学 (ロシア作家案内シリーズ)
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まだ大学院生のころ、著者の名前は研究室で話題になっていて、それからすこしずっとあとになって本人を知ったのだけれど、もっぱら当時は会っても酒ばっかり飲んでて、こういう肝心なことをいろいろ聞かないままだった。
ロボットや人造人間のことはずっとぼくの興味でもあったけれど、メアリー・シェリーやウェルズをちょっとかじったくらいじゃ、いかにも基礎が弱い。で、今の今まで来てしまった。
この5,6年、少し頭を空っぽにしたい気持ちで、ほとんど英語ばかり読んできた。すると、ラッダイト(19世紀初めの英国の機械打ちこわし運動)などとこうしたテーマを結び付けたら面白いんじゃないか、ということでイギリス経済史の本なんかが数冊書架に並んでいる。
「創造するもの:創造されるもの」の対比が「想像するもの:想像されるもの」というもう一つの対比と微妙にずれつつ文学史をつらぬく。で、小説というのは文学史上の事件であると同時に社会経済史的な出来事でもある、という、さる大先生のことばをここにつなぐと、この「創造」/「想像」のありようの変化が、科学や技術の発展と無関係であるはずがない。
こうして、みんなつながっている。ロシアにおけるダーウィニズムの本は買って持っているが、書影が出ないな。それを読むべきかもしれない。あるいは、ルィセンコ論争のこと、本気で勉強し直すべきかもしれない。あるいは理系学者としてのクロポトキンのことなど。
あるいは、〈反逆〉や〈反乱〉をもう一度考え直すために、スパルタクス、プガチョフ、トゥーサン=ルベルチュールなども。
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これも買ったまま読んでないのは我ながら本当に残念。
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で、お金もさることながら、時間がどうにもならない。7,8冊並行で本を読みつつ、じりじりと時間が過ぎてゆく。まともに読める外国語がたった二つしかない、博士号すらないままの自分。生は有限だということを、いやでも考える。
老母とケンカ。ほんとうにつまらないことで。怒鳴って悪いことをしたので、デコポンを買ってきた。曇っていて寒く、数日前までの真夏の陽気はどこへやら。でも、五月はこういう天気なんだ。
ペガサスの朝~五十嵐浩晃は自分のことを「イガラシは…」と言っていた
それにしても、ミリュコーフとトロツキー、この臨時政府の初代外相とソヴィエト政府の初代外相の二人が、ともに亡命地で、いずれも長大なロシア革命史を書いたという事実はまことに興味深い。両者はともに抜群に頭がよく、尊大で、どこか孤独であった。よく似たこの二人は、ともに自分の革命史でみずからを三人称で登場させた。[…]
illeismというらしくて。自分のことを呼ぶのに三人称を多用すること。
いまのアメリカ大統領が政策を発表するときにこれを使う。「わたしは…」と言わずに「ドナルド・トランプは…」とやる。スターリンもそうだったらしいんだけど詳しく知らない。
日本語は主語が動詞のかたちを決定するという言語じゃないから、ちょっと分けて考える必要はあるのかもしれない。その上でなお例を挙げるとすれば、「ヤザワは…」(永ちゃん)とか「コイズミは…」(キョンキョン)とか、いろいろあろうよ。
彼らほど知られてはいないだろうが、北海道出身の五十嵐浩晃は、80年代にデビューし、TVによく出ていたと思うけれども、やはり「イガラシは…」という言い方をしていて、いつだかNHKアナウンサーが感心していたのを思い出す。もちろん「伊代はまだ16だから」というのもあった。
いろいろあって、なんかしんどい一日だったので、午後遅く、老母とソフトクリームを食べに行った。空を眺めていると、静かに暮らしたいという気持ちが募る。