ザ・シンガー
「どこまで喋ったのだったかな……」千葉潔が壁に背をもたせ、焼酎の入ったコップを口に寄せた。
「先輩は、しかしどうしてそう農民のことや宗教のことを気にかけるんですか。この前話してくれたギオルギイ・ドージャに指導されたハンガリーの農民一揆や、幕末の百姓一揆のことも面白かった。先輩の話はいつ聞いても面白いけれども 、しかし何かこう、僕たちの関心とはちょっとかけ離れているような気がするな」
今年ボート部に加わったばかりの、落合武彦が言った。彼はボートでの役割は舵手[コックス]だった。
「そりゃ、みんなが共通してほかに興味のあることがあるんなら、話題は変えてもいいんだが、……で、君は例えば、どんな話に興味がある?」
「困るなあ、そう言われると。だけど、ダンテとベアトリーチェのこととか、ゲーテとフリデリーケの愛情の問題とか……」
「うおう」と意味もなく一同がうなり声をあげた。
「いや、その問題でもいいよ。ただ、ドイツ語の教授だけじゃなく、倫理学の教授も文学の教授も、一高の校長も三高の校長も、口を開けば、ゲーテ、ゲーテと言うのには、ゲーテの偉大さとは別な、ある理由がある[…]
思い出した、これだ。
「サカエちゃんは東京にゴカイとゲンソーがあるのよ」とともだちに注意を受けていたのは岡崎京子『東京ガールズ・ブラボー』の、札幌から上京した女子高生の主人公だった。で、ぼくはぎゃくに内地から北海道に帰って、大学院に入って、負けてなるかと連日怪気炎を上げていた時期、「っちょ、っちょっと待って、どうも君はこの大学にゴガイとゲンソーがあるようだが…」と言われたことがある。稚内の学会のあと、東京のどなたかと話していたときも、「どうもあなたは東京の大学にゴカイがあるようだが…」という話になった。
で、そのゴカイとゲンソーのもとは何か、と辿っていくと、ここに突き当たる。これは実在の宗教団体にモデルをとった架空の宗教団体の興亡の話だが、そのことはおいておく。場所は京都あたり、戦前の話だ。教団で育てられた主人公の千葉潔はある事件で少年感化院送りとなり、そこを脱走、鋳物工場の工員などをしながら独学し、検定試験を受け合格、旧制の第三高等学校へ進むのだ(感化院を脱走した少年がノーチェックでそんな道に進めるのか、少し不思議ではあったが)。
で、その風変わりな年長の先輩が、ボート部の部室で、部員らに異端宗教の歴史について話をするシーン。思想統制の厳しくなった時代にあって、ボート部の部室というのが意外に自由な討論の場だった、しかも自由な校風の京都三高という設定で、鮮烈だった。豊かな家庭の出身の学生も、経験のかけ離れたこの年長者に敬意を示す、なんてところもある。
これを読んだのは、一回大学を出たあとだというのはおぼえている。そして、どうもここに描かれているような、自由でのびのびした学生生活というものに、もう取り返しはつかないのか…と羨望をおぼえた。あとはいつも書いている通りだから書かないが、そうだ、これだ。
たまたま先日、京都大学へ行ったけれど、今の京都大学がそういう自由闊達なところであるのかどうかは知らない。高橋和巳自身が第三高等学校や京大のことを過度に理念化しすぎていないという保証もない。まして、全国のふつうの大学でそんな校風のところがそうそうあるわけでもない。
だからぼくは、これを後生大事に真に受けているといろいろ現実とずれが生じて…ということを、延々と繰り返してきたわけだ。
この文庫本は、ガレージの奥の段ボール箱の中で眠っていたのを、数年前に出しておいた。思い出したのは、たしかこれと比較すると面白いだろうと思って、バルガス=リョサの英訳本も買って持っている。こんな分厚い英書を読む余裕がいつかできるという目算もなかったけれど、本は買って持っている。あせらず。
The War of the End of the World
- 作者: Mario Vargas Llosa
- 出版社/メーカー: Faber & Faber
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雨のエアポート~雑談や世間話で馬脚が現れないように新聞くらいは読もう
佐藤 いまでも政治、経済、文化エリートで新聞を読まない人はいないはずです。軽い世間話であっても、ニュースについて何らかの見解を求められて会話が続かなければ、「その程度のやつだ」とあっさり見限られますから。今後、いくら新聞の購読者数が減っても、この傾向は変わらないはずです。
僕らが毎日やっている最強の読み方;新聞・雑誌・ネット・書籍から「知識と教養」を身につける70の極意
- 作者: 池上彰,佐藤優
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
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雑談をバカにしてはいけないというのは本当にそうなのだ。馬脚を露(あら)わすというのは手もとの国語辞典によれば「隠していた正体や悪事があらわになる」ことというけれど、悪事というほどでなくとも、それはないでしょという無知がばれるきっかけは往々にしてこの雑談や世間話だ。
去年のアメリカ大統領選でも、民主党でも共和党でもない第三の党から出ていた候補が、テレビ討論で滔々と持論を展開していたまではよいが、シリア内戦の話になり、司会者が「いまのアレッポの状況は…」と切り出した時、「アレッポとは何のことだ?」と即座に返答し、ろくに国際ニュースも見ていないことが明らかになってしまった。
で、こう言うぼく自身が冷や汗もので、そういう失態を何度も犯している。「ボリス・グレべンシコフって誰?」とか、もう、無知丸出しの受け答えで座を白けさせた思い出はいくつもある。
だから、こんなもの役に立たない、と言って、せっかく高価な授業料を払って出ている学校の授業をロクに聴かない若い人のことが心配で仕方なかった。たしかに、クルマのセールスマンになれば車にくわしければよく、住宅の営業マンになれば何より住宅のことを徹底的に知らなければならない。だが、顧客や取引先とはかならず雑談がある。このとき、相手はプロ野球や芸能界の話ばかりするわけではない。マイナス金利や、為替相場や、日本経済の来し方行く末についてひと通りの受け答えのできない営業マンなど、だれが信用するだろう。
ぼくはロシア語屋になったけれど、制度としては最初の大学で経済学士という学士号をもらった人間だ。ただ、それに価する勉強をしないまま、トコロテン式に学校を出てきたことをずっと悔やんでいる。ロシア語の専門家だから世間一般のニュースには疎くて良いとも思わない。だから、今もし教壇に立つことがあるとしたら、とかく自嘲ばかりしている経済経営系の学生に、手を変え品を変え、ここに書いたような話をするだろう。
楽園のDoor
佐藤 歴史の背景や文化を知ろうと思ったら、文学作品から得る情報はとても重要です。ただし、歴史小説はあくまでフィクションなので、その点には注意してほしいですね。経営者が愛読書としてよくあげる司馬遼太郎の『坂の上の雲』には、明石元二郎陸軍大佐とレーニンが面識があったように書かれています。しかしその文献的な根拠は、明石本人が書いた『落花流水』しかなく、史実と勘違いして鵜呑みにすると大変危険です。歴史小説はあくまで「娯楽」として読むべきで、それで歴史を学ぶのは厳禁です。(276ページ)
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ここ、引いとこう。
前にも書いたけれど、むかしむかし買った西洋経済史の本に、古今東西の文学作品に触れるのが歴史を知る「捷径」、つまり早道だ、と書いてあったことがいまだに忘れられない身としては、そこのところをぼかさずに明確に「それで歴史を学ぶのは厳禁」としてあるのが新鮮に映る。
むろん、この佐藤優はことあるごとに、小説も読め、と言っている人なのであって、文学が無用だとか有害だとか言っているわけではない。そこを間違えてはいけない。
文学と、人文・社会系の学問の協働というのはつねにうまくいっているわけではなく、文学が専門、というと、ほかならぬ文学部においてすら、たいそう肩身の狭い、つらい思いをさせられることがある。娯楽として小説を読むことなどだれでもやっていることだから。そこがいつもぼくらにとってのデッドエンドだ。ここの部分を悪意をもった人間に執拗につつかれると、ぼくらには逃げ場はない。
言い訳は、いろいろあった。いやあ、ぼくらは語学屋として雇われているわけですからね、と英語の教授は言っていた。文学研究は文芸評論とも、ましてや読書感想文とも違うのだぞ、とけつをまくることだってできただろう。しかし、文学研究なんて究極のところで趣味の読書と限りなく区別がないじゃないか、という事態の本質はごまかせない。
決定的なのは、群を抜いた読書の水準を維持できているかどうか、それだけだろう。日本文学専攻であれ、外国文学であれ、おもてからもウラからも読みこなせていれば、その人の能力を、良識ある人がそうそう見くびれるものではない。何より、そうしたレベルの高い読書をしている人ほど自然な自信と謙虚な落ち着きがあり、細かい批判はあんまり気にならないだろう。
ただ、これは言うは易く…のたぐいではある。読書計画を立てても、計画通りに行くことなどまずない。読まなければならない本は、増えてゆく一方だ。
秋からもそばにいて
佐藤 選挙を意識する政治エリートは、県紙の影響力をよくわかっています。地元の県紙記者が多少厳しいことを書いても、本気でケンカはしません。池上さんは『中国新聞』と『信濃毎日新聞』以外で読んでいる地方紙はありますか?
池上 地方に行ったときは、そこの地方紙を必ず買って読みますね。佐藤さんは?
佐藤 私の場合、沖縄に関する論評が仕事の大きなウエートを占めているので、『琉球新報』と『沖縄タイムズ』は定期購読して、しっかり読み込んでいます。ほかにも、日露関係が動き出すときは『北海道新聞』を定期購読します。ロシアも日本も北方領土について機微に触れる情報は、あえて『北海道新聞』に流すんですよ。そのときの『北海道新聞』は日露間の情報のキャッチボールを行う特別の媒体になるんです。
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気晴らしに読んでいた。
こういうところは、北海道民はそんなに意識してはいないと思うけれど、北海道新聞は個人で定期購読したことがないのでわからない。たしか、大学院の寮にいたころ、院生同士で購読費を出し合って取っていたのは朝日と北海道新聞だ。でも、そのころは、そこまでのことは念頭にはなかった。
新聞は産経、読売、日経の保守勢と、朝日、毎日、東京新聞のリベラルに分れるというのはだれでも知っているが、一紙だけ読んでいると偏りが生じるので二紙を読むことを奨めているのはまあだいたい予想の範囲内だ。ただ、では二紙を「定期購読」する必要があるのかと言うと、必ずしもそうではないというところなど新味がある。
佐藤 そうそう、大事なことを伝えなければ。「読むのは2紙以上で」と言っていますが、定期購読する新聞は、一般的なビジネスパーソンなら1紙で十分です。
池上 佐藤さんと私が複数紙を定期購読しているのは、それが仕事だからですよ。
一般的なビジネスパーソンなら、まず同時に何紙か買ってきて読み比べ、自分に合っていそうな全国紙を定期購読する。それを「ホームグラウンド」にして、ほかは「アウェー」と思って、論調のことなる他紙を駅売りやコンビニで財布と時間の許す限り買ってくる。それで十分、と。この穏当さはけっこう新鮮に感ずる。
ぼくの場合は、公民館の新聞を読みに行くということもしている。定期購読しているのは全国紙ひとつと、英字紙の日曜版と英語週刊誌、たしかにもうそれで手いっぱいだ。ワシントン・ポストの電子版を読んでいたころは、眠れない明け方、起きてノートパソコンを開き、1,2時間読む日があったが、これも、習慣としてやろうと思うと時間がかかってしようがない。そんなことをしているのは、まさにそれを生業とする一部の外信部記者ぐらいだろう。
それにしても、一時期『デイリー・ヨミウリ』を毎日読んでいた日のことは忘れない。やはりぜんぶ読もうと思うと大変で、一日3,4頁だったけれど、英字新聞の見開きのページにすべて目を通すというのはけっこう充実感がある。研究室をたたんでひとりになるとき、正直言って同僚の多くは、ぼくがその後も外国語屋を続けていくなどとは信じてはいなかったと思う。横文字を読む習慣を取り戻せたのは、まったくあの数年のおかげだ。
↓これ、買ってもいいや。
ジレンマ
ドイツのアンドレ―エとイギリスを結ぶ重要人物は、チェコの学者ヤン・コメニウスである。彼はモラヴィア兄弟団の牧師であったが、チェコから追放され、放浪生活を送った。アンドレ―エを尊敬するとともに、薔薇十字の思想にひかれた。コメニウスはイギリスに渡り、そこで世界を改革する教育のための世界学院を構想した。それは、〈見えない学院[コレッジ]〉として出発し、やがて一六六〇年の〈ロイヤル・ソサエティ(王立協会)〉の創立をもたらすのである。薔薇十字は、ロイヤル・ソサエティの起源ともなっている。
このように、薔薇十字は、フリーメイソンからロイヤル・ソサエティまでに影響を与え、近代の科学革命に大きな役割を果たした。フランセス・イエイツは、そのような開かれた意味の中で薔薇十字を再評価した。
一方、狭い意味での薔薇十字は、奇跡と錬金術の魔法として語られる。小さなグループの薔薇十字団が次々と作られる。たとえばぺトルス・モルミウスは、一六三〇年、黄金薔薇十字団の一人に会ったと述べている。〈黄金〉という字がつけられたことは、錬金術が中心であることを物語っている。
錬金術は面白そうで、英文科の授業をたくさん取っていた時に聴いたパラケルススの話など、とても興味があったが、ヨーロッパ的広がりの中でそれをとらえようとしたら、英語がちょっとできるくらいじゃぜんぜん足りないだろう。
英語が読めるということは、往々にして、欧米の学者が諸言語を駆使して調べ、まとめた成果を、自分の独創と取り違えるというカン違いにつながる危険性をはらんでいる。英語の研究書を読むのはそれはそれで大事なことだが、なまじ英文の学術書の機微がわかるということに酔ってしまって、自分の研究成果と同一視したくなる危険性は、これは決して小さくない。
この本の巻末の「主要参考文献」には一四,五冊。英語文献が挙げられているので、そうとうそれらの文献を使っているだろう。が、ドイツ語やフランス語の文献は挙がっていないから、やはり英語圏の学者が独仏語の知識を使って書き上げた成果をお借りしているという側面はあるだろう。
こうして、研究対象の次数の問題がここでも浮かび上がる。ここに書かれていることは、どれも興味深いことだが、各国語の原資料→研究論文→英語圏でのその咀嚼…と、何次かの次数の繰り下がりを経て日本語化された情報だということは、どこかで意識しておく必要がある。たとえばドイツ語の文献を英米人が咀嚼して英語化するとき、思いがけない歪曲や省略などが起こっていることがあることは前にも書いたような気がする。
という自分だってドイツ語はろくに読めやしないので、何かといえば英語の本に頼るのだ。ただ、そうして英語の文献を読んでると、ああ、この著者もたいして自分では知っちゃいないことを書いてるな、と気づく瞬間がある。そういうとき、ドイツ語やフランス語から日本語に訳された専門書がいかにありがたいか、といったことを感ずる。この著者も、白水社の文庫クセジュを大いに使っている。
発光!深夜族
発光!深夜族→昭和レジデンス→肉体関係 Part 2 改 /クレイジーケンバンド
京都の件。ほんとは暑い京都に二泊というのは自信がなかった。だから、予定が既定になってしまったあとも、何とか変更し、二泊目は懇親会に出ないで新幹線で東京まで戻り、翌朝の北海道行きの飛行機で午前中に帰ってこれないか、と、わりと真剣に考えていた。これだもの、一泊延長して京都観光など、まるで眼中にない。ジャズ喫茶めぐりは多少考えたけれど、今やiPodTouchとアイスコーヒーがあれば、どこであれそこがぼくのジャズ喫茶。懇親会に出ないでそういう店を巡ろうか、という気持ちも少ししたが、なんだかんだ言って懇親会は出てよかった。これも何かの同窓会みたいな雰囲気もあり、その点うしろ向きなのは大いに自己批判の必要を感じないでもないが、歳に免じて許してもらえればさいわいとも思う。
なんにせよ、終わった。今日は辛うじて20度を超えたくらいの涼しすぎる北海道で、あとはお盆過ぎから11月に根雪になるまでの長い秋をどう過ごそうかと考えたり、そんな毎日だ。
京都の夜
「政治」はいつからか、「行為」actionではなく、ある戦略・戦術を「所有」することに置きかえられた。戦略・戦術の意図をもった行動・活動によって、制度を創造・維持・改革・革命・破壊することが、政治活動といわれるようになった。消費がアクティヴな様式になってくるにつれ、この「制度化された政治」は、支配権力であれ反権力であれ、〈政治行為〉を麻痺させるようになる。無知を啓蒙し、「限界なき学問」による認識を専門主義の管轄下で啓蒙し、民衆に獲得=所有させ、多数者を投票ブロックに囲いこむかあるいはアンチテーゼの直接参加に動員する。
京都の話。
もうあの出張から帰着したのが一週間前になってしまった。放心して過ごしているとあっという間だが、あのときの参加者は思い思いのお盆休みを過ごしながら、すでにとっくに次の仕事に取りかかっている。
ぼくは、スカイプを使ってロシア人作家にインタビューしたのを録音しなかったことがひどく悔やまれて、記憶が薄れないうちに再現しておきたいと先方に申し入れたところだ。で、先方にとってはひどくやっかいな話であることだろう、と思いつつある。
音楽は演奏されたら宙に消えてしまう、と言ったのはエリック・ドルフィーだっただろうか。インタビューも同じだ。その場の興にまかせての受け答えは、録音・録画でもしておかない限りは、あとから記憶に頼って再現しておこうったって限界がある。
それでも上記のような申し入れをしたのは、少なくとも自分には、公開の場でその作家にインタビューするなどという機会はこの先あるかどうかもわからないことで、何らかの形にして残しておくことが自分には(そして願わくは相手にとっても)意味のあることだと感じられるからだ。
研究会などの報告を、あとから論集などの形で冊子にまとめるということはよくあることだが、今回の研究会の論集なり報告書が出るかどうかは、今のところ確たることは聞いてはいない。ふつうの報告ならば原稿があるので、それをあとから提出することは比較的容易だ。しかしインタビューはそれができない。何回かスカイプの練習を兼ねてリハーサルも行ったので、今のうちなら再現ができる気がする。時がたってからだと、記憶もあやふやになって、とうてい無理だろう。
ぼくは人に過大な仕事を要求をしたりするのはもちろん好きではない。が、これくらいなら、先方の多忙な仕事の合間に、少しずつでもやってもらえるのではないか、と感じられた。頼むとしたら今日がギリギリのリミットではないか、とも思った。
北海道は、例の台風通過後、急に気温が低くなり、今日も二〇度に届かない。