革命は何人称か~マヤコフスキーと三島由紀夫
住民の大半を占める民衆は、教育水準が低かった。人口の八割ほどを占める農民のうちには字が読めない者も大勢いた。階層的な秩序をなすロシア社会で彼らは経済的に不利な立場にあるだけでなく、二級臣民のような立場にあった。そこから「われわれ」と「あいつら」という、民衆の世界観における二分法も生まれた。実際、彼らは工場では技師に、軍隊では将校に、村落では役人に、街中では旦那たちに軽んじられる日々を送っていた。非ロシア人の場合、ここに様々な民族的制約が加わった。[…]
いやいやなになに、ここにこんな話が書いてあったかと驚く。やはりこれはと思う本は、繰り返し読む必要があるよ。
でもって、民衆にとっては、現在ある秩序はコツコツ修正していくのではなく、「いつか、夢のような真実の瞬間に、一挙に転覆されるべきものであった」と著者は続ける。そうすれば自分たちの望む公正な社会が実現する。しかし、そのときは皇帝が倒れるだけではすまず、エリート層全体が押し流されるだろう。これが「自由主義者の悪夢」だった、と。なるほどね。
この夢のような真実の瞬間、というところ。ここに一人称単数形の「わたし」が、いかにおのれを賭けうるか。少しあてずっぽう気味に書いておけば、マヤコフスキーの「わたしの革命」って、その目もくらむような逆転劇における当事者性の、きわめて文学的表出なんだろうね。マヤコフスキーなんか、さぼってぜんぜん読まないで来たんだけどさ。
だとすれば、現物が出てこないので記憶に頼って書くのだけれど、三島由紀夫が1969年の5月、東大全共闘と対話した時、会場から「バカヤロー、関係なんて一番卑猥なんだよ」とヤジが飛んだのにたいして、全共闘Cが「関係立ったところからそれを逆転するのが革命じゃねえのか」と怒鳴り返した、あの場面ね。あそこでは全共闘Cの脳裏で、どのような革命の人称が想定されていたんだろうか。
乱世に生まれて活躍したかった、とはぼくは思わない。学生運動でろくに授業のない時代に学生をやっていたら、ぼくの人生はもっともっと狭く、暗いものだったろう。きちんと語学の授業が受けられてよかった。
で、上記の三島本を探して書架をさんざん引っかきまわしたんだけれど、それは出てこなかった。かわりに、今冬、いくら探しても見つからなかったスタインベック『パール』が出てきたので、それもいいなあ。
…ああそうか、三島の市ヶ谷突入も、三島なりの「わたしの革命」だったのだろうか。
The Pearl (Penguin Great Books of the 20th Century)
- 作者: John Steinbeck
- 出版社/メーカー: Penguin Books
- 発売日: 2000/04/06
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1969年、カナダのテレビ局による、三島由紀夫の貴重なインタビュー