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俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

透明少女~大学教師は〈私〉の顔を見せるのをつつしむべきということについて

 〈私〉的なものとは、具体的なイメージをあげるならば、「趣味」や「雑談」のようなものであろう。たとえば、中学や高校の教師が「雑談」と称して、自分の家族や日常生活のことをたれ流して、生徒たちの気を惹こうとしているのが、ぼくは昔から嫌いだった。あるいは、大学の教師が、学生に配布される「自己紹介」のたぐいに、自分の学問領域とはまったく関係のない「趣味」のことなどを書いて紙面を汚し、学生たちから「親しみやすい」という評判を得ようと腐心していることにも、ぼくは嫌悪感を禁じ得ない。

 

ポストナショナリズムの精神

ポストナショナリズムの精神

 

 

  以下省略するが、大学教師は知識人たるべきで、学生には〈公〉の顔を向けるべき、というのは、今になって腑に落ちるところがある。

 地方大学などに勤務すると、この〈公〉と〈私〉、そして著者が前向きな意味を込めて使う〈個〉のけじめが非常に難しい。難しいけれど、公私混同はぜひとも避けるべきで、もっぱら通訳者としてコミュニティからお呼びがかかることが多少不満でも、呼ばれたからには通訳者の役割に徹するべきだった。愚痴を書くのはいやだから書かないが、それで通訳者としての評価が低ければ、発奮して猛勉強するしかない。

 勤務先では〈私〉の顔はなるべく出さない、というのは、大学のせんせーの世間知としてはわりと行き渡っているようでもあって、冷徹なアドミニストレーターとしての顔しか向けない人が、音楽の趣味では分かり合えそうな人だったり、ということは、ずっとあとから知ったりしたのだった。しかも、今考えると、そういう人らはあえて余計な人とは分かり合わないのだ、というふしもあったようで、世間はそういうところだというのが今になってわかったりもする。

 語学の授業のついでに、ふと余計なコメントを漏らすということの多かったぼくは、日本のロックバンドについていろいろ知っていると思われていたが、それこそが、上の個所で言う〈私〉の顔のいやらしさだろう。これはウェーバーが講壇禁欲ということを説いたのと同じことで、教師は事実判断の伝達に徹すべきで、価値判断=何がいいか悪いかについては関与してはならないということ。

 しかし、大学一年の政治学で習ったのは、事実判断と価値判断の分離はそう簡単なことではなく、価値判断はどうしても入ってきてしまう、ということだった。これは程度問題でもあって、講義全体が政治宣伝やはたまた大道芸もどきというのでは困るが、たまの学園祭で先生がたがギターを弾いてカントリーなんか唄っているのは、そんなにいやな気もしなかった。が、もうずいぶん昔の話だ。

 昨夜から雨、けさがたの夢のなかでも道を歩けないほどの土砂降りで、世界の終わりが来たように空が異様に暗い。そんな中、理系の先生のためのレクチャーを頼まれて、パワポをいじるのだが、刻々時間が迫ってもパワポはいっこうに完成せず、プロジェクターをオンにすると、なぜか成人向け動画が映ってしまう、というところで目が覚める。起きたらやっぱり雨だった。

 向井秀徳椎名林檎に「あなた美人やね」とヨイショするTVを観た記憶があるが、あれはなんという番組だったか。


NUMBER GIRL - 透明少女