ダイジェスト本もまたその抜粋のしかたが資料となりうることについて
[…]本屋も数件あって、ほしい本も何冊か手にとってみたのだが、まだ前途に船旅をひかえているということが、荷物をふやすことをためらわせ、ここではクールトンの『中世の精神』を買っただけで、ずらりとならんでいた『生きた思想』双書は一冊も買わなかった。この双書は、反ファシズム思想闘争のために編集された、近代民主主義の代表的思想家からの抜粋であって、マルクスをトロツキー、ニイチェをハインリヒ・マン、ペインをドス・パソスというように、編集と解説を担当していた。これがずらりとならんでいるのに、一冊も買わなかったことについて、ぼくは自己批判の必要を感じている。たしかに、荷物がふえるからというのは、強力で客観的な理由であった。しかし、それよりまえに、ぼくの気持ちのなかには、抜粋であってフル・テクストでないことへの、軽蔑があったことはまちがいない 。抜粋本が、抜粋のしかたによって一定の解釈をあらわし、そういうものとして思想史の材料になること、また双書の編集も同様であること、もっと一般化すれば、思想の原内容だけでなくその社会的存在形態が、そうであることに、おもい及ばなかったのである。
研究対象の次数の問題、あと一点だけ。
ここの個所もすごく何度も読み返してぼく自身の考え方に入り込んでいる部分だ。文学をやろうと思想をやろうと、テクストとしてどの版を使うかということがうるさく言われることは周知のとおりだ。厳密な本文校訂をほどこした権威ある版というのを使わないと、それだけでモグリのようにケチがつくこともある。
これは、原著者が書いたオリジナルになるべく近いものを読むべきだという意味合いで当然のことなのではあるが、それとは別に、その思想がどのように解釈され、伝達されてきたか、ということを研究対象とするばあいは、ダイジェスト版もまた役に立つ。
最新の研究成果から見れば原著者の意図を離れて偏った伝達のされ方をしていたり、思想というものの「社会的存在形態」は、時代とともに変化する。
で、偏った、誤った伝え方をしている本は、時代が変われば廃棄されどこでも手に入らなくなり、そのために、その時代、マルクスなりニーチェなりがどのようなものとして受容されていたのかが、あとの時代から見るとまったくわからなくなる。そのためにこそ、ここで言われているようないささか中途半端なダイジェスト版が思想史の材料として役に立つ。
ところが、こうした議論を受け容れようとしない人々というのもまた一方では存在するらしい。思想なり学説なりは常にアップデートされた状態に保てていればそれでよく、なまじ古い知識をどこかに保存しておくのは不経済であり危険でさえある、といった考え方だ。
いつだか、ロシア経済の専門家と話していたとこのこと。社会主義だったころは、ソ連経済の動態をうまく説明できるモデルがないかどうか、経済学者のあいだでも模索が続けられていたという。しかし、ソ連崩壊後、社会主義経済でなくなって以降は、それらの探求は完全に無価値になった、という話。「しかし、そうした理論の変遷をどこかに書き留めておくこともまた必要なのではないか」とぼくが問うと、「…いやあ、もうそれは意味がないですねえ」とのことだったように思う。
ここがぼくにはわからないところで、だとすれば今でも、経済思想史の研究者が経済史の研究者にひけ目を感ずる、という状態は、どこかで続いているのだろうか。
一度行きたいと思っていた高円寺の某古本屋では、もう洋書を置いていないんだとかで、自分が行ったこともない書店の話なのに、なぜかとても残念だ。
札幌のいつも行く大学で、恒久的なデスクの置き場所をもらう夢を見る。だから、夢ね。