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俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

春うらら~今読むとよくわかる高島善哉『アダム・スミス』

 戦後、とくに最近のわが国では、「ウェーバーマルクス」というテーマがさかんにとり上げられている。マルクスは資本主義のロゴス(構造法則)を明らかにしたけれども、資本主義社会に住む人間のエトス(こころのあり方)をとり上げなかった。これに反してウェーバーのほうはすぐれてエトス的である。すなわちウェーバーは、人間の心の問題や行為の問題に私たちの注意を向けてくれる。こうしてマルクスの見落とした問題、あるいはマルクスの方法ではつかみえなかった人間の問題が、ウェーバーによってとり上げられ解明されているとみるのである。このような意味で「ウェーバーマルクス」問題が頭を出してきたのである。現代社会科学におけるエトスとロゴスの問題ということになろう。私がことさらここでこういうむずかしい哲学用語を使うのは、最近の日本の学界の一つの傾向を念頭においたためである。 

 

 

 

アダム・スミス (1968年) (岩波新書)

アダム・スミス (1968年) (岩波新書)

 

 

 

アダム・スミス (岩波新書 青版 674)

アダム・スミス (岩波新書 青版 674)

 

 

 

グラスゴウ大学講義

グラスゴウ大学講義

 

  最近の日本の学界の一つの傾向、とあるが、この本が書かれたのはかれこれ50年前だから、そのことを考慮する必要がある。その意味で歴史的に相対化しながら=割り引いて読むべきなのだろうが、それを忘れて思わず読みふけった。

 このロゴスとエトスの話なんかすとんと腑に落ちるのは、ぼくが個人的に大塚久雄を愛読していたせいもあるには違いないが、このあと、スミスは『道徳感情論』でエトスを論じ、『国富論』でロゴスを論じたの「ではない」というふうに論が展開していくからで、つい先日も書いた、事実判断(「である」)と価値判断(「べき」)は社会科学にあっては混じり合い、厳密に峻別できない、ということの変奏が、こんなところにも覗いているからでもある。

 しかしこの本、一回でも通読したことがあっただろうか。ところどころ記憶はあるような気もするが、はじめて読むような新鮮さだ。他にもスミスによる重商主義批判を論じたくだりなど、ほとんど興奮しながら読んだといってもいいくらいだ。保護主義が今日の重要なニュース用語となりつつあるが、ここらへんまでさかのぼって勉強しておくとよいのかもしれない。最初の大学時代、重商主義はとにかくわかりづらくて、ふつうの学生の手に負えるものではなかった。それは今でもそうで、職業的な経済史家以外の人間がおいそれと手出しすべきではないのかもしれない。しかし、この本で読む限り、スミスの重商主義批判には、今日にも相通ずるかも、ということがいろいろ見いだせる。

 二月中旬、当然北海道はまだ冬だが、今日あたりははっきりと、冬の終わりの始まりを感じた。くもりの予報だったが太陽が出て、アスファルトの上は雪が解けてべちゃべちゃ。どうせまだ雪は降るけれど、あと少しで、厳寒期を抜ける。トランクスを新調しに行き、バレンタイン商品売り場で、安物だけれどネクタイを一本買う。包装は…と訊かれそうになり、自分用です、と先に言う。いつもの大学から、また本をコピーしに来ていいよという通知が来たので、シャツも新しいのを買わなきゃ。

 


春うらら   田山雅光