俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

キックの鬼~個人蔵書の重要性を信じて買い続けた本たち

[…]公共図書館の充実についてはまったく賛成である。だが、公共図書館を充実させるほうが、個人に自己の蔵書を作れ、とすすめるよりも「一層知的な発言だ」などというのは、一見、利口めかしていて、きわめて不親切な言葉である。公共図書館の充実はそれでよく、個人の蔵書の充実はまたそれでよいのである。しかも右の個人蔵書批判者は、彼が手本と考えているらしい海外の公立図書館を私の如く、外からも内からも体験していない。だからいっていることが理想主義的に見えてウソになっているのである。

 公共図書館の充実を促進させることには賛成でも、あるテーマを抱いて現在すでに研究している人間、またはしようという人間が、公立図書館が自分の欲求どおりの本をみんなそろえて、しかも混み合わないようにしてくれるまで、この日本で待てというのだろうか。待てないから向坂氏でも荒氏でもそれなりに全力をつくしてやっているのである。『毛沢東語録』やある種の熱狂的宗教書に憑かれて、「あとは実践あるのみ」などといっている人はそれでよい。しかし知的、あるいは学問的著作をしようとしたり、あるいはライフ・スタイルとしての知的生活を志すものにとっては、私的蔵書が不要になる時代など待てないのだ。絶対に待てないのだ。

 

知的生活の方法 続 (講談社現代新書 538)

知的生活の方法 続 (講談社現代新書 538)

 

  この最後の部分。「私的蔵書が不要になる時代など待てないのだ。絶対に待てないのだ」という、この言い切りの激しさ。ここにぼくは大きな影響を受け、いまだにこれに縛り付けられている。

 時代が変わり、ネットに落ちてる、とか自炊してクラウドに、とかいう時代になったのはわかっているつもりだ。技術的に自信がついたらぼくもスキャナで読み取って原本を廃棄することをするかもしれない。しかし今現在、Bywaterの"Great Pacific War"がアマゾンのkindleで100円ほどで買えてしまうのに、やはり初版本を所蔵しているところまで行って、初版にはこんな序文がついていたのか! という発見をするということがある。手元にある本も、時期が来たら読めるように手元に置いているわけで、今読まないならどうせ読まないのだから処分したらどうか、といった「断捨離の心得」を決まり文句のように聞かされるのは、ひどく困る。

 これは、テクノロジーの発展が急速すぎるという話ではあって、ぼくが大学でお給料をもらい始めたころは、インターネットもPDFもなかったし、ディスプレイ上で電子テクストが読める時代が来るなど、考えられもしなかった。いや、すでに予想は充分になされていたのだろうが、「今に何でもコンピューターで読めるようになりますよ」とすました顔をして資料収集の努力を一切しなかったとしたら、ぼくのほんのわずかな数の論文ですら、書かれることはあっただろうか。論文を書くというのはぼくの乏しい経験から言っても、資料探しとその読み込み、論点の発見とが連鎖するダイナミックなプロセスで、必要になったらその時見ればいい、といった消極的な態度では、少なくともぼくは、一本の論文だって書けなかっただろう。

 いや、こういう論じ方がすでに渡部氏の影響丸出しで、古いのだろうか。

 ファヂェーエフを読み終える。邦題は『壊滅』となっているやつ。四日かかった。二日で読めるかと思ったが、やはりそれは無理。が、年が明けて、また原書を読み切る生活が戻ってきて、大いに自信を取り戻す。スタインベックバートランド・ラッセル、ダニール・グラーニン、ファヂェーエフ。まるで大学院生だね。どこかでファヂェーエフの選集、古書で出てるのを見たが、いつのことだったか?

 このサーフェスにはスキャンしてきた原書のPDFがいっぱい入っている。それに取りかかってもいい。というか、それが現下の「しごと」の一部。希望を持とう。


「キックの鬼」OPをうたってみた