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俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

まっくら森のうた~大みそかの書庫で見つけた渡部昇一『発想法』の思い出

 いずれにしろ、一つの井戸を持っただけで安心したのでは、たちまち涸れるのだ。リソースフルというのを語源的に拡大解釈して、「井戸の数の多い人」と考えてみよう。[…]

 こういう考え方に最初に触れたのは、私の中学・高校時代の英語の恩師、佐藤順太先生のお宅においてであった。おそらく大学一年の頃であったと思う。何かのついでから、明治二十年代の坪内逍遥森鴎外の有名な文学論争である”没理想論争”について触れられた。そして「第三者から見ると鷗外の勝ちであったが、その原因は利用できた外国語が鷗外は英語とドイツ語の二か国語だったのに反し、逍遥は英語だけだったことにあるように思われる」という、いかなる明治文学史にも文壇史にも書いていないような、先生独特の面白い判断を下されたのである。

 

発想法 リソースフル人間のすすめ (講談社現代新書)

発想法 リソースフル人間のすすめ (講談社現代新書)

 

  これは深いところでずっとぼくに影響を与え続けてきた、悪く言えばぼくを縛り続けてきた本で、外国語は複数出来ないと本格じゃない、というぼくの強固な思い込みは、どうもこの人のこの本から来ている。

 resourceful「機略に富む:資源豊富な」という言葉を語源的に解釈し、「汲んでも汲んでもわき出す」という意味、と発見するところからこの本は始まる。知的発想の源泉を井戸にたとえ、水を枯らさないようにするには「井戸を何本も掘っておくこと」とするこの本の姿勢は、じゅうぶん説得的だった。

 となると、「第二外国語は単位を取るだけで、あとは英語に専念すればいい」とはならない。ぼくはある時期、思い切って英語ではない外国語を専門にすることに決めたけれど、その場合でも、もう英語は専門的にやらなくていい、とはならない。

 何で今ごろこの本を取り上げるかといえば、今日、書庫へ行ったのだ。スコップをかついで行き、ひざくらいまである雪を除雪して、ドアを開けた。本しかないプレハブ小屋だが、それでも通行人にのぞき込まれたりするのは嫌なので、古新聞でガラス窓を目隠しししてある。それが日に焼けてすっかり風化していたので、先日とるのを止めたロシア語の『文学新聞』の古紙で張り替えてきた。そして、この本が目についたので、懐かしくなり、持ってきた。

 塾のバイトをしながら一年過ごした、あの頃に読んだのだと思う。インターネットもなく、古本屋で本を漁るのだけが知的な仕入れだった、あのころ。

 この本にあるような、英語とドイツ語の二本の井戸、というのは、そうとう説得力があった。まだ、どの分野でも大学院進学には外国語が二つ必要だったはずの時代。この本は、さらに三つ目の井戸、といったことも書くが、ただ、現実には人間のもつ時間や知力は有限なので、際限なくいくつもの外国語を勉強するといったことは、よほど条件に恵まれないと難しい。多くの研究者が、仕事を大成させる秘訣として「禁欲」を口にするのは、そこから来ている。この著者も、思わしい業績が上がらない場合は、専門を狭くすることを説いている。どこかで、著者自身がラテン語の完全な習得はあきらめたという話も書いていたはずだ。

 そして、たいていの人は、一本、二本の井戸さえも、汲みつくすまで極める機会に恵まれない。ぼくの進んだ二つ目の大学でも、英文学の先生がたの悩みは、学生がろくに英語の本を読めるようにならないうちに卒業になってしまうので、あまり長くない『老人と海』を卒論に選ぶ学生が続出してしまう、といったことだった。これは実にデリケートで難しい問題なのだが、実は語学が嫌いな学生が、いまどき英語くらいはできないと…という理由で英文に進む、ということもどうもあったらしくて、ぼくがあえて英文専攻に行かなかったのは、そのことも微妙に関係している。

 自宅で年越し。北海道ではなぜか大みそかにごちそうをがっつり食べるので、本州の人が不思議がる、ということもよく聞く。ともあれ、あと数カ月したら、また春だ。希望を持とう。

 


まっくら森のうた