I cannot speak English ~やがて哀しき外国語
しかし外国人によって書かれた伝記や自叙伝というのはどうしてこう面白いんでしょうかね? 読みだしたら止まらない小説というのは最近アメリカでも稀だけれど、読みだしたら止まらない伝記というのはけっこう数多くある。そんなわけで、ここのところ小説はひとまずおいて音楽家の伝記のようなものを何冊かまとめて読んでいた。今はロッテ・レーニャの伝記を読んでいるところである。
終究悲哀的外国語( やがて哀しき外国語)(中国語) (村上春樹随筆系列)
- 作者: 村上春樹,《やがて哀しき外国語》の中文版。,林少華
- 出版社/メーカー: 上海訳文出版社
- 発売日: 2004/02/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る
伝記、というところをもう少し緩く、ノンフィクション全般くらいのくくりに置き換えたら、ほぼ賛成。ただ、「外国人によって書かれた」というのはこの場合、「英語で書かれた」くらいの意味だろう。そのこと。
村上のこの本はずいぶん前の本だが、ぼくの私設研究室(四畳半)の本棚にずっとあった。引き抜いて読みだすと、このところインタビューをテープ起こししたようなスッカスカの本ばかり読んでいたせいで、とにかく内容が濃い。文庫版は1997年の刊行だから、単行本はそれ以前に出ているわけで、書かれていること自体は、ずいぶん昔のことではある。それでも古い感じが全然せず、というか、古いところも時代の刻印を帯びた記録たり得ていて、なかなかだ。
黒人のタクシー運転手とジャズ談議で盛り上がり、その運転手が次のようなことを言うくだりなども、アメリカ人の対日観の一端をあらわしている。
「このあいだTVのトークショウで誰かが言っていたけど、日本人の本を読む量というのは、アメリカ人と比べ物にならないくらい多いんだってな。日本人は本当によく本を読んで、そいつをしっかり研究する。アメリカ人は本を書く。でもそういう書かれた本を読む人間は少ない。ふつうのアメリカ人はろくに本なんて読みゃしない。日本人がそういう本を読む。そしてそれをアメリカ人よりもよく理解するんだ、オー・ヤー」
村上は「そんなに話は簡単じゃないよ」と言いつつ、そこに一面の真理があることを認める。
僕らは間違いなく何かを取り込むことに長けた人種だし、ものすごく洗練された取り込みシステムを何千年にも亘って進化させてきた人種なのだ。なんのかんの言ってもそれは真実だと思う。たとえばジャズという音楽を考えてみても、それは結局おじさんにとっての「俺たちの音楽」なのだ。「本を書いた」のは彼らなのだ。
日本の知識人が欧米文化を吸収するばかりで自らは何も発信しない「ブラックホール」だというのはよく言われることで、そうした発言の一例と読めばよいのだろうけれど、先日取り上げた茂木健一郎氏の英語教育本のことなんかも思い出したりもするのだ。アングロサクソンのマインドセットを理解し、それに乗ることのできる者のみが「本を書く」側になる。そうでない者はこれからもずっと受信者=取り込みをもっぱらとするのみで、われわれをそうした境遇にとどめおく語学教育のダメ例が、茂木氏に言わせればTOEIC、ということになるんだろうな。TOEICにもスピーキング&ライティングの試験が別建てであるけどね。
ちょっと飛躍したか。冒頭の伝記とか自叙伝とか、明らかに「英語で書かれた」というのを省いて言っている気がどうしてもする。ロシアのことをやっていても、英語で書かれた作家の伝記とか、もっと広い通史とかも、めちゃくちゃ面白いんだ。たしかにそうしたものを読む研究者はごろごろいるが、書く側にいる日本人は、少ないな。これからは増えていくのだろうけれど。
I cannot speak English 日本人が英語なんてしゃべれないよ!