俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

夏休み

 日本国内で英語を勉強するのに、試験で良い成績をとったり、資格を取ることを目標にして励むのは決して悪いことではない。

 私もこの年になると(というほど年をとったわけでもないけれども)、いまさら試験などで選別されたいとは思わないが、かつては英語の検定試験を目指して勉強に励んだものだ。自慢じゃないが、といいながら少し自慢させてもらえば、実用英語技能検定試験(いわゆる英検)は中学生のときに取った四級から始めて大学三年で一級まで合格したし、社会に出てからは日本商工会議所が主催する商業英語検定試験のAクラスと日本翻訳連盟が主催するほんやく検定(英和)一級に合格している。

 その経験からいっても、試験を目標として英語を勉強することで、それが大きな自信と実力の向上につながってきたことは間違いない。

 

英語屋さんの虎ノ巻 (集英社新書)

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  ここ拾っとこう。

 大学の教員になってしまえば、ものを言うのは論文数であり、資格や検定はどうでもいいという側面はある。また、それとは別に、検定試験の英語、たとえばTOEIC900点といってもそのレベルはどちらかといえば標準的・基礎的であって、それを取って慢心するのは滑稽である、といった趣旨のことを書く研究者・大学教授も一定数存在する。

 しかし、この種の検定を目標に若いころ勉強に励んだ大学教授だってけっして少なくないはずだ。それをやったからと言って感性が俗悪になって、文学や語学研究ができなくなるということもない。いや、そういうこともあるかもしれないが、それは個々人の心がけ次第だろう(二番目に行った大学では、年配の教授の一人が国連英検特A級を取得してちょっとした話題になったことがあった)。

 ましてやぼくはもう、大学の先生じゃない。あのころは、「語学力がつかない」と悩むまじめな子がたまにいると、わかる範囲で相談に乗っていてやればよく、それに半年が過ぎ、一年が過ぎていった。今は地位も何もない。わずかな論文数と、語学検定の結果が若干あるだけだ。

 今日、九月二五日のTOEICの申し込み締め切りだったが、昨夜の段階では五〇パーセントくらいは、申し込んでみようかというつもりだった。が、日中バタバタしていて、結局申し込まなかった。かわりに、かつて取り寄せたロシア語検定の過去問を引っ張り出してきて、ながめていた。

 近所ではぼくは何をしてるかわからない人で、誰も語学や文学研究の専門家などとは思っていない。田舎ふうの、そんなことやってなんぼになるのさ、という世界。それでも、語学検定のたぐいを取っておくことは、その他の面で仕事に進展がない時も心の平安を保つよすがになって、意外に役に立っている。


『夏休み』吉田拓郎  姉さん先生 もういない・・・