俺にはブルーズを歌う権利なんかない

どこにも所属を持たず仕事/勉強/読書を続けています。2008年、音楽についてメモ代わりに書くためにこのブログを始めました。

Preludium for Jazz Band

 ぼくが3つ目に通った大学の正門を出てすぐのところに、かつてクラシック音楽をかける広い喫茶店がありました。今は大きなホテルが建っているところ。

 一度入ったことがあるきりで、クラシックを聴かないぼくが行く理由もないような気がして通うこともなかったですが、今になって、あそこを勉強部屋の代わりに使う手もあったのかなあ、なんて考えています。
 むろん大学の中に図書館もあるし、学生も自由に出入りできる研究室というのがちゃんとあったんです。でも、図書館ではコーヒーは飲めないし、研究室は他の人がいたらたちまち「談話室」になってしまうので、本を読むには必ずしも向かない。

 なにを贅沢な、と叱られそうですが、本、とくに横文字の本を読むために一、二時間集中するには、静かな喫茶店のようなところが一番合うんですね。クラシックを聴かない、ゆえに、という論理でそういう選択肢をひとつ捨ててしまったのは、ちょっともったいない話。
 むろん、一度入ったことのあるだけのあの喫茶店でそんなことが出来たかどうかは、今では知りようがありません。こだわりのレコードを流すお店では、そんな不純な目的で通う客は歓迎しなかったかもしれない、とも想像します。

 ただ、あの喫茶店に関しては、なにか「勉強場所を確保することができたかも」、というだけではない心残りがあります。先に書いたとおり「クラシックは聴かなくていいや」という人生でしたけど、その後、そうした素養がすこしでもあればなあ、という場面がたくさんあったので、よけい思うのです。講義をもう一つ余分に取るようなつもりで、名曲喫茶通いをしばし自分に課してみる、ということをしていたらどうだったろう、などと。
 研究の道に入って驚いたのは、ある種の研究者たちの、たんに「学校で習いました」というのとは違う文化的素養の豊かさです。チャイコフスキーショスタコーヴィチが好きでその良さがわかる、ということの自然な延長として、生業としてのヨーロッパ文化研究がある、という、田舎ではお目にかからない人生の生き方。あの人も、この人も、そういえばあの人も、そういう素養があればこそ、あんな論文や著書が書ける…
 今、MDラジカセからドボルザーク交響曲八番が流れています。この第三楽章のワルツのいかにもスラヴ的優美さを、長い学生時代のどこかの時点で知っていたなら…。これを「ドボ八」などと親しみを込めて呼んで玩味できる感性はとうてい身に付かないにしても、ブラームスによって完成された交響曲の文法を自国の土壌に移植する過程でチェコなりロシアなりの国民楽派が形成された、という基礎知識みたいなものは、知るきっかけになったんじゃないかなあ…。

 無い物ねだりですか。けど、学生が気軽に入れるクラシックの喫茶店が大学の正門前にあったのは確かな事実です。なにかありうべき一つの可能性みたいなものと、そこですれ違ってしまった気が今になってするのです。

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 これは6年くらい前にポメラを買った時、さかんに発表のあてもなく書いていた文章のひとつ。ちょっとさらしとく。

 クラシックを聴かなかった人生におおむね悔いはないが、最近はまた少し考え方が変わって、たいていのことには遅すぎるということはない、と考えている。今日は、十分の一でもわかればいいやというくらいのつもりで、ストラヴィンスキーのLP盤を一日聴いている。


Igor Stravinsky - "Preludium For Jazz Band"