鈴虫の鳴き声~パリピになんかならなくてもいい
さらにHさんに限らず、調査に応じてくれたパリピの若者たちは、自分に圧倒的な肯定感を持っている人が多い傾向にありました。彼らは自信家なので、多少言葉が足りなくても、躊躇せずコミュニケーションを取ろうとします。その躊躇のなさが、彼らが広い人間関係を構築できる理由ではないでしょうか。
朝三時に起きて勉強していたが、疲れて仮眠して、起きてこれを読んでいた。
「パリピ」ね。パーティーピープルね。いろいろ造語も大変よなトレンド屋さんも。
裕福な家庭の子女で、生活満足度が高く、流行を追うというより、SNSなどを使ってむしろ流行を広める位置にある都会の若者たちという意味か。自撮り棒、ラブホ女子会、ナイトプール、リムジンパーティ、その他きいたこともないイベントの数々。それらが一般に流行るころには、彼ら自身の関心はもう次のことへ向かっている。
要はマーケティング用語の「アーリー・アダプター」のことらしい。流行に対する敏感さでは上位16パーセントの中に入り、「イノベーター」(フィクサー)に次ぐ。このパリピまでの16パーセントに普及したものは流行に乗り(「キャズムを越え」)、それにアーリーマジョリティ(サーピー=サークルピープル)、ついでレイトマジョリティ(パンピー=一般ピープル)が追随する、という構図らしい。
ただ、サーピー=アーリーマジョリティのなかにも自称パリピがいるという。
これに関連して、サーピーの中には自分が「パリピ」だと思い込んでいる「自称パリピ」や、パリピになりたくて必死の「パリピワナビー」もいます。皮肉な話ですが、「パリピになりたい、パリピでありたいと切望すればするほど、サーピーの地位からは抜けられない」そうで、非情な身分差が垣間見えます。
この構図。パリピになりたいと切望すればするほど他者の視線を意識した上目づかいの「楽しいふり」から抜けられず、そのぎこちなさがかえって他者の評価を下げていく。するとますます自己肯定感も下がり、いっそうわざとらしさから抜け出せなくなる…
これはあくまでマーケッターである著者が経済の論理で書いた本だが、ここに自己肯定感という考え方が顔をのぞかせているのが面白かった。
ここで思い出されるのはさわら木野衣さんの『資本主義の滝壺』という懐かしい本。いま急には出てこないので記憶に頼って書くが、そのなかに「創造的時代錯誤の京都」という一章があったと思う。東京では半年ごとに流行が変わり、ニューウェイヴもノーウェイヴもあっという間に消費しつくされてすたれていった。それにたいし、適度に首都から離れた京都ではそういうものが簡単にすたれずに土着して根を張り、新しい文化を生み出してゆく。例えばボアダムズ『ポップ・タタリ』のような。
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ここでも自己肯定感というのは、おおきいと思う。自分のやっていることを、つまらない、時代遅れのことだとすねているようでは、何をやろうと説得力なんかない。多少トレンドから遅れていても、くさらず、悪びれず、のびのびやっていれば、「あいつら、なんだか楽しそうだな」と人が集まってくる。意図する、しないは別として、流行から周回遅れのものが、最新の業界事情の消化に疲れた目には逆にやけに輝いて見える、というのはよくあることだ。結局、そういうことなんじゃないか。
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老母が鈴虫をもらってきた。ここらあたりは気温も上がらず、まだ夏という感じじゃないが、鈴虫の声を聴きながら、老母とひとしきりむかし話をして、なつかしかった。これ以上の何を人生に望むことがあろうか。もうこれで、今年の夏はいい思い出ができた。